・・・ 命令に対して、怠慢をつぐなうため、早速銃をとって立ちあがるかと思いの外、彼の部下の顔には、××な、苦々しい感情があり/\と現れた。「うて、うち×せ!」 だが、その時、銃を取った大西上等兵と浜田一等兵は、安全装置を戻すと、直ちに・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ トシエは悲しむかと思いの外、晴々とした顔をしていた。これは、まだ、兄の妻とならないさきの、野良で自由にはねまわり、自由に恋をした、その時の顔だ。妙に、はしゃいでいた。 つゝましさも、兄に頼りきったところも、トシエの顔から消え去って・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 従兄は、例の団栗眼を光らして怒るかと思いの外、少し唇を尖らして、くっくっと吹き出しそうになった。が、すぐそれを呑み込んで、「ううむ?」と曖昧に塩入れ場の前に六尺の天秤棒や、丸太棒やを六七本立てかけてある方に顎をちょいと突き出して搾・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・巣は小さな笊のような形をしていて、思いの外に精巧な細工である。これこそ本能的母性愛の生み出した天然の芸術であろう。 荒川が急に逆様に流れ出したと思ったら、コースがいつの間にか百八十度廻転して帰り路になっていた。 キャディが三人、一人・・・ 寺田寅彦 「ゴルフ随行記」
・・・それが大変に丁寧な言葉を遣っているのに対して女学生の言葉が思いの外にぞんざいである。問答ばかりでなかなか容易には肝心の針の方に手が行かない。対話の末に、今日の四時何十分とかに出発する人々に贈るのだということがわかってからやっと針が動き始めて・・・ 寺田寅彦 「千人針」
・・・少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの外に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕忝しと一碗を傾くればはや厭になりぬ。寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 東京駅発の電車は思いの外あまり込まなかった。横浜で下りた子供連れの客はたいてい博覧会行きらしかった。大船近くの土堤の桜はもうすっかり青葉になっており、将来の日本ハリウード映画都市も今ではまだ野良犬の遊び場所のように見受けられた。茅ヶ崎・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ それがために、最近の数ヶ月は思いの外に早く経ってしまった。衰えた身体を九十度の暑さに持て余したのはつい数日前の事のように思われたのに、もう血液の不充分な手足の末端は、障子や火鉢くらいで防ぎ切れない寒さに凍えるような冬が来た。そして私の・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套を着た職工風の男が一人、絣りの着流しに八字髭を生しながらその顔立・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携えてこの店に立寄られたのだと云う。店の主人は既にわたくしとは相識の間である。偶然の会合に興を得て店頭の言談には忽花がさいた。主人は喜んで新に買入れた古書錦絵の類を・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫