・・・あきらめられそうでいてて、さて思い起こすごとにあきらめ得ない哀別のこころに沈むのはこの類の事です、そして私は「縁が薄い」という言葉の悲哀を、つくづく身に感じます。 ツイ近ごろのことです、私は校友会の席で、久しぶりで鷹見や上田に会いました・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・人間の倫理的養成がいかにわれらの禀性に本具しているかはこれでも思いあたるのである。その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるも・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たしかにそうだった。子供が自分の衝動の赴くまゝに、やりた・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・サア、まことの糟糠の妻たる夫思いの細君はついに堪えかねて、真正面から、「あなたは今日はどうかなさったの。」と逼って訊いた。「どうもしない。」「だって。……わたしの事?」「ナーニ。」「それならお勤先の事?」「ウウ、・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・月を見ても、もの想いにふけってはいけないそうだ。母親のことを考えて、メソメソしてもならないそうだ――人はそう云う。だが、この母親は俺がこういう処に入っているとは知らずに、俺の好きな西瓜を買っておいて、今日は帰ってくる、そしてその日帰って来な・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・のものを八つまでは灘へうちこむ五斗兵衛が末胤酔えば三郎づれが鉄砲の音ぐらいにはびくりともせぬ強者そのお相伴の御免蒙りたいは万々なれどどうぞ御近日とありふれたる送り詞を、契約に片務あり果たさざるを得ずと思い出したる俊雄は早や友仙の袖や袂が眼前・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ と御酒機嫌とは云いながら余程御贔屓と見えまして、黄金を一枚出された時に、七兵衞は正直な人ゆえ、これを貰えば嘸家内が悦ぶだろうと思い、押戴いて懐へ突っ込んで玄関へ飛出しました。殿「あれ/\七兵衞が何処かへ往くぞ、誰か見てやれ」 ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽しませる上に、暑くても何でも一年のうちで一番よく働ける書入れ時のように思い、これまで殆んど避暑の旅に出たことも・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・ この群の跡から付いて来た老人は今の青年の叫声を聞くや否や、例のしっかりした、早い歩き付きで二足進んで、日に焼けた顔に思い切った幅広な微笑を見せて、人の好げた青い目を面白げに、さも人を信ずるらしく光らせて、青年の前に来て、その顔を下から・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・母親はじいさんの言ったことを思い出して、はじめて、ウイリイに話をして聞かせました。それからは、ウイリイはその鍵をいつもポケットにしまって、大事に持っていました。 そのうちに、ウイリイの十四の誕生が来ました。ウイリイは、その朝早く起きて窓・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
出典:青空文庫