・・・ 私は黙って頷きながら、湯ざましの湯を急須に注いだ。この可憐な捨児の話が、客松原勇之助君の幼年時代の身の上話だと云う事は、初対面の私にもとうに推測がついていたのであった。 しばらく沈黙が続いた後、私は客に言葉をかけた。「阿母さん・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・たね子はやっとひとりになると、その日も長火鉢の前に坐り、急須の湯飲みについであった、ぬるい番茶を飲むことにした。が、彼女の心もちは何か落ち着きを失っていた。彼女の前にあった新聞は花盛りの上野の写真を入れていた。彼女はぼんやりこの写真を見なが・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ 金之助は急須に湯を注したが、茶はもう出流れているので、手を叩いて女中を呼ぶ。 間もなく、「何か御用ですの?」と不作法に縁側の外から用を聞いて、女中はジロジロお光の姿を見るのであった。「御用だから呼んだのよ。この急須を空けっちま・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・椅子の横の台の上には薬びんと急須と茶わんとが当時のままに置いてあります。書斎の机でも寝室でも意外に質素なもので驚きました。二階の室々にはいろいろな遺物など並べてありますが、私にはゲーテの実験に使った物理器械や標本などがおもしろうございました・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・茶・急須・砂糖・コップ・匙。それをもっているのはСССР市民だけではない。我々だってもっている。 今日はコルホーズの大きいのを見た。トラクターが働いての収穫後の藁山。そこへ雪がかかっている。 ああはやく、はやく! あっちに高い「エレ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・彼女は日本女を見ると珍しそうに目で笑い、だが何にも余計なことをいわず、頼まれただけの湯呑と急須とをゆっくり棚からとってくれた。湯呑の一つに赤旗を背景に麦束をかこんだ鎌と鎚の模様がついていて、黒い文字で「万国のプロレタリアート、結合せよ!」・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ 健康な村のニキートや技師マイコフがする通り、患者達も朝は自分の茶を急須につまんで、病院からくれる湯をついで、それがすきなら受皿にあけてゆっくりのむ。 正午十二時に食事が配られ、四時すぎ夕食が配られ、夜は又茶だ。 夕方の六時・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・自分用の小さい中古の急須と茶のみ茶わんとをひと重ねにして、それを手のひらで上から包むようなもちかたでもって、台所へ出て来た。昔風に南側が二間の高窓になっていた、そのかまちの上に急須と茶わんをのせて、七輪の方へ来てやかんをとり、自分ののむ茶を・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ 翁が特に愛していた、蝦蟇出という朱泥の急須がある。径二寸もあろうかと思われる、小さい急須の代赭色の膚に Pemphigus という水泡のような、大小種々の疣が出来ている。多分焼く時に出来損ねたのであろう。この蝦蟇出の急須に絹糸の切屑の・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・竹が薬缶を持って、急須に湯を差しに来て、「上はすっかり晴れました」と云った。「もうお互に帰ろうじゃないか」と戸川が云った。 富田は幅の広い顔に幅の広い笑を見せた。「ところが、まだなかなか帰られないよ。独身生活を berufsmaes・・・ 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫