・・・それは恋しいと云うよりも、もっと残酷な感情だった。何故男が彼女の所へ、突然足踏みもしなくなったか、――その訳が彼女には呑みこめなかった。勿論お蓮は何度となく、変り易い世間の男心に、一切の原因を見出そうとした。が、男の来なくなった前後の事情を・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・それは、懐しい、恋しい情が昂って、路々の雪礫に目が眩んだ次第ではない。 ――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・が、表面では、そう沈んだようには見せたくなかったので、からかい半分に、「区役所が一番恋しいだろう?」「いいえ」吉弥はにッこりしたが、口を歪めて、「あたい、やッぱし青木さんが一番可愛い、わ――実があって――長く世話をかけたんだもの」「・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
鳥屋の前に立ったらば赤い鳥がないていた。私は姉さんを思い出す。電車や汽車の通ってる町に住んでる姉さんがほんとに恋しい、なつかしい。もう夕方か、日がかげる。村の方からガタ馬車がらっぱを吹いて駆けてくる。・・・ 小川未明 「赤い鳥」
・・・そして、牛女の残していった子供は、恋しい母親の姿を、毎日のように村はずれに立ってながめたのであります。「牛女が、また西の山に現れた。あんなに子供の身の上を心配している。かわいそうなものだ。」と、村人はいって、その子供のめんどうをよく見て・・・ 小川未明 「牛女」
・・・三年たてば、恋しい母や父が、やってくるといったけれど、彼女はどうしても、その日まで待つことはできませんでした。「どうかして、生まれた家へ帰りたいもんだ。」と、彼女は思いました。 しかし、道は、遠く、ひとり歩いたのでは、方角すらも、よ・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・「小鳥や、おまえも産まれたふるさとが恋しいだろう。さあ、わたしが、いまおまえを自由にしてあげるから、早く飛んでおゆき。」と、女はいいました。 そして、女は、お姫さまの大事にしていられた小鳥を、放してやりました。赤と、緑と、青の羽色を・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・父としては子を傷け、夫としては妻を傷つけて行ったようなあの放蕩な旦那が、どうしてこんなに恋しいかと思われるほど。「ああああ、お新より外にもう自分を支える力はなくなってしまった」 とおげんは独りで言って見て嘆息した。 九月らしい日・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・胸が焼けるほど恋しい。あの、いいお家には、お父さんもいらしったし、お姉さんもいた。お母さんだって、若かった。私が学校から帰って来ると、お母さんと、お姉さんと、何か面白そうに台所か、茶の間で話をしている。おやつを貰って、ひとしきり二人に甘えた・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・あなたを相手に、こんなところで話をしていると、死ぬるくらいに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのこうのと、きざに、あたしをいじくり廻すものだから、あたし、いいあんばいに忘れていた。あたしの不幸、あたしの汚なさ、あたしの無力・・・ 太宰治 「火の鳥」
出典:青空文庫