・・・――昨日あの看護婦は、戸沢さんが診察に来た時、わざわざ医者を茶の間へ呼んで、「先生、一体この患者はいつ頃まで持つ御見込みなんでしょう? もし長く持つようでしたら、私はお暇を頂きたいんですが。」と云った。看護婦は勿論医者のほかには、誰もいない・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
序 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・理性の判断から回避している卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にしてわずかに慰めている臆病者、暇ある時に玩具を弄ぶような心をもって詩を書きかつ読むいわゆる愛詩家、および自己の神経組織の不健全なことを心に誇る偽患者、ないしはそれらの模倣者等、すべて詩・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 懐しくも床さに、お縫は死骸の身に絡った殊にそれが肺結核の患者であったのを、心得ある看護婦でありながら、記念にと謂って強いて貰い受けて来て葛籠の底深く秘め置いたが、菊枝がかねて橘之助贔屓で、番附に記した名ばかり見ても顔色を変える騒を知っ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・井筒屋のお貞が言った通り、はたして梅毒患者であったかと思うと、僕は身の毛が逆立ったのである。井上眼科病院で診察してもらったら、一、二箇月入院して見なければ、直るか直らないかを判定しにくいと言ったとか。 かの女は黒い眼鏡を填めた。 僕・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・疱瘡痲疹の患者は大抵児供だから、この袋が忽ち大評判となって一層繁昌した。(椿岳の代となって自から下画を描いた事があるそうだ。軽焼屋の袋は一時好事家間に珍がられて俄に市価を生じたが、就中 喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなか・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
花の咲く前には、とかく、寒かったり、暖かかったりして天候の定まらぬものです。 その日も暮れ方まで穏やかだったのが夜に入ると、急に風が出はじめました。 ちょうど、悪寒に襲われた患者のように、常磐木は、その黒い姿を暗の中で、しきり・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・ そこから、T町までは、遠かったのであります。乗り物によっても、一日は費やされたのです。気じょうぶな叔母さんをつきそいに頼んで、彼女はT町にゆき、そして、病院の門をくぐったのでした。 患者の控え室は、たくさんの人で、いっぱいでした。・・・ 小川未明 「世の中のこと」
・・・入口の階段に患者が灰色にうずくまったりしている。そんなことが一層この橋の感じをしょんぼりさせているのだろう。川口界隈の煤煙にくすんだ空の色が、重くこの橋の上に垂れている。川の水も濁っている。 ともかく、陰気だ。ひとつには、この橋を年中日・・・ 織田作之助 「馬地獄」
出典:青空文庫