・・・元来それがしは、よせふと申して、えるされむに住む靴匠でござったが、当日は御主がぴらと殿の裁判を受けられるとすぐに、一家のものどもを戸口へ呼び集めて、勿体なくも、御主の御悩みを、笑い興じながら、見物したものでござる。」 記録の語る所による・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・而して悩みました。その頃の聖書は如何に強烈な権威を以て私を感動させましたろう。聖書を隅から隅にまですがりついて凡ての誘惑に対する唯一の武器とも鞭撻とも頼んだその頃を思いやると立脚の危さに肉が戦きます。 私の聖書に対する感動はその後薄らい・・・ 有島武郎 「『聖書』の権威」
・・・――山の草、朽樹などにこそ、あるべき茸が、人の住う屋敷に、所嫌わず生出づるを忌み悩み、ここに、法力の験なる山伏に、祈祷を頼もうと、橋がかりに向って呼掛けた。これに応じて、山伏が、まず揚幕の裡にて謡ったのである。が、鷺玄庵と聞いただけでも、思・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 越前の府、武生の、侘しい旅宿の、雪に埋れた軒を離れて、二町ばかりも進んだ時、吹雪に行悩みながら、私は――そう思いました。 思いつつ推切って行くのであります。 私はここから四十里余り隔たった、おなじ雪深い国に生れたので、こうした・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・これを心に悩みあるものと解らないようでは恋の話はできない。 それのみならず、おとよは愛想のよい人でだれと話してもよく笑う。よく笑うけれどそれは真からの笑いではない。ただおはまが来た時にばかり、真に嬉しそうな笑いを見せる。それはどういうわ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・古今詩人文人の藁本の今に残存するものは数多くあるが、これほど文人の悲痛なる芸術的の悩みを味わわせるものはない。 が、悲惨は作者が自ら筆を持つ事が出来なくなったというだけで、意気も気根も文章も少しも衰えていない。右眼が明を失ったのは九輯に・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・しかしその悩みは、行く末の幸福を得ることのために愉快でありました。早く、その未知の島にゆきたいものだとみんなは心で思いました。どんな困難や辛苦がこの後あってもそれを切り抜けてゆこうという勇気がみんなの心にわいたのであります。 太陽は、赤・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・人間はみないろ/\の形に於て、悩み苦しみ求めている。それは、曾て、抽象的に考えられたような、真実や、美は、そのまゝ何処にも存在するものでないと知ったがためである。 流浪者程、自然をいつくしむものがないと、クロポトキンは言っている。なぜな・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・けど、お習字してますと、なんやこう、悩みや苦しみがみな忘れてしまえるみたい気イしますのんで、私好きです。貴方なんか、きっとお習字上手やと思いますわ。お上手なんでしょう? いっぺん見せていただきたいわ」「僕は字なんかいっぺんも習ったことは・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・あの娘は姙娠しよるやろか、せんやろかと終日思い悩み、金助が訪ねてこないだろうかと怖れた。「教育上の大問題」そんな見出しの新聞記事を想像するに及んで、苦悩は極まった。 いろいろ思い案じたあげく、今のうちにお君と結婚すれば、たとえ姙娠してい・・・ 織田作之助 「雨」
出典:青空文庫