・・・そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂ばかりである。たとえば汽車の煤煙の匂は何人も嗅ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、――五六年前に顔を合せたあるお嬢さんの記憶などはあの匂を嗅ぎさえすれば、・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・抜いて持った釵、鬢摺れに髪に返そうとすると、や、するごとに、手の撓うにさえ、得も言われない、異な、変な、悪臭い、堪らない、臭気がしたのであるから。 城は公園を出る方で、そこにも影がないとすると、吹矢の道を上ったに相違ない。で、後へ続くに・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ しかし一代は衰弱する一方で、水の引くようにみるみる痩せて行き、癌特有の堪え切れぬ悪臭はふと死のにおいであった。寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物一切にご利益があると近所の人に聴いた生駒の石切まで一代の腰巻を持って行き、特等の祈祷をして・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・得体の知れぬ部屋の悪臭をかぎながら、つまりこれがおれの生活の異臭なんだと、しかしちょっと惹きつけられてみたり、そうかと思うと、それを毎夜なんのあてもなしにそわそわと街へ出掛けて行く口実にしていた。ひとつには彼が街をほっつき歩くのは孤独をまぎ・・・ 織田作之助 「道」
・・・そして脂肪や、焦げパンや、腐った漬物の悪臭が、また新しく皆の鼻孔を刺戟した。「二度診断を受けたことがあるんだが。」そう云って木村は咳をした。「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」「十分念を入れてみて貰うたらど・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・彼等は一寸話を中止して、豚小屋の悪臭に鼻をそむけた。 それまで、汚れた床板の上に寝ころんで物憂そうにしていた豚が、彼等の靴音にびっくりして急に跳ね上った。そして荒々しく床板を蹴りながら柵のところへやって来た。 豚の鼻さきが一寸あたる・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・背後の村には燃えさしの家が、ぷすぷす燻り、人を焼く、あの火葬場のような悪臭が、部隊を追っかけるようにどこまでも流れ拡がってついてきた。けれども、それも、大隊長の内心の幸福を妨げなかった。「ユフカは、たしかに司令官閣下の命令通り、パルチザ・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 彼等は、髪や爪が焼ける悪臭を思い浮べた。雪に包まれた江の向うの林に薄い紫色の煙が上りだした。「誰れやこしだったんだ?」 腰に弾丸がはまっている初田がきいた。「六人じゃというこっちゃ。」「六人?」 六人の兵士は、みな・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・そろそろと堪えがたい悪臭が祖母の懐の奥から這い出た。 いまもなお私の耳朶をくすぐる祖母の子守歌。「狐の嫁入り、婿さん居ない。」その余の言葉はなくもがな。 太宰治 「玩具」
・・・鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和の憂色がただよい、それゆえに高雅、車夫馬丁を常客とする悪臭ふんぷんの安食堂で、ひとり牛鍋の葱をつついている男の顔は、笑ってはいけない、キリストそのままであったという。ひるごろ私は、作家、深田久弥氏のもと・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫