・・・「それから彼女には情人だろう。」「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」 夜更けの往来は靄と云うよりも瘴気に近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた黄色に見えるものだった。僕等は腕を・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・ただこの好女の数の多い情人の一人として春宵のつれづれを慰めるために忍んで来た。――それが、まだ一番鶏も鳴かないのに、こっそり床をぬけ出して、酒臭い唇に、一切衆生皆成仏道の妙経を読誦しようとするのである。…… 阿闍梨は褊袗の襟を正して、専・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・銭がねえならかせぐのよ、情人が不実なら別な情人を目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』 娘が来て、『何言ってるの?』気味わるそうに言う。『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死神に取っ付かれそうな晩・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・いずれが真珠、いずれが豚、つくづく主客てんとうして、今は、やけくそ、お嫁入り当時の髪飾り、かの白痴にちかき情人の写真しのばせ在りしロケットさえも、バンドの金具のはて迄。すっからかん。与えるに、ものなき時は、安(とだけ書いて、ふと他のこと考え・・・ 太宰治 「創生記」
・・・たとえばごく甘口の行き方をすれば、弦の切れて巻き上がった三味線をちょっと映した次に、上野の森のこずえのおぼろ月でも出しそれに夜がらすの声でも入れておいて、もう一ぺん妹とその情人の停車場へ急ぐ自動車を出すとかなんとか方法はないものかと思う。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・それが夫婦でもなくもちろん情人でもなく、きわめて平凡なるビジネスだけの関係らしく見えていて、そうしてそれがアメリカの魚屋さんとアメリカの八百屋さんのように見えるのが不思議である。 二人ともにあるいは昔からの活動写真、近ごろの発声映画のフ・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
・・・私はあの方と直接の交際をしたことはなく歌や人の話で、あの方の複雑な家庭の事情を想像していただけですが、たとえ情人があってもなくても、いつかはああなって行くのが、あの方の運命だったのでしょう。あんなに歌の上では、自分の生活を呪ったり悲しんだり・・・ 宮本百合子 「行く可き処に行き着いたのです」
・・・が、妻の方は、只自分が一生一つ顔ばかり見て居なければならないと云う厭怠から、他に情人を作ります。もう彼女にとって、忠実なる働き手の良人は何の魅力も持って居りません。重荷でございます。早く振りはなしてしまいたい、けれども、若し自分がこのまま単・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・長崎の方は情人、或は妻的、違う?」「其だけ、つまり性的に馴練されて居るわけだな」「地理的関係もあるから、ね。昔のオランダ人なんかは随分、そういう長崎婦人の美点をエンジョウイしたらしいことよ。幕府では、オランダ人が細君を連れて来ること・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
出典:青空文庫