・・・ 広重の情趣 尤も、今の東京にも、昔の錦絵にあるやうな景色は全然なくなつてしまつたわけではない。僕は或る夏の暮れ方、本所の一の橋のそばの共同便所へ入つた。その便所を出て見ると、雨がぽつ/\降り出してゐた。その時、一の橋とたてがは・・・ 芥川竜之介 「東京に生れて」
・・・日光の射さない、湿っぽい木蔭に、霧にぬれている姿は、道ばたの石の間から、伸び出て咲いている雪のような梅鉢草の花と共に、何となく深山の情趣を漂わせます。もとより、これを味うには、あまりに稀品とすべきでありましょう。・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・中には絵などが入っていて、一層の情趣を添えるのもあって、まことに書物として玩賞に値するのであります。 和本は、虫がつき易いからというけれど、この頃の洋書風のものでも、十年も書架に晒らせば、紙の色が変り、装釘の色も褪せて、しかも和本に於け・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・そう言えば、長く都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽しませる上に、暑くても何でも一年のうちで一番よく働ける書入れ時のように思い、これまで殆んど避暑・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・例えば家なき児レミがミリガン夫人に別れを告げて船を下りてから、ヴイタリス老人とちょっと顔を見合せて、そうしてあてのない旅路をふみ出すところなどでも、何でもないようで細かい情趣がにじんでいる。永い旅路と季節の推移を示す短いシーンの系列など、ま・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(5[#「5」はローマ数字、1-13-25])」
・・・それがそぼふる秋雨ににじんで、更にしっとりとした情趣を帯びていた。 翌朝港内をこめていた霧が上がると秋晴れの日がじりじりと照りつけた。電車で街を縦走して、とある辻から山腹の方へ広い坂道を上がって行くと、行き止まりに新築の大神宮の社がある・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・さびしい花瓶の菜の花もそのたびに淡いあわれの情趣を誘うた。 今度はI君がサイクラメンとポインセチアを届けてくれた。ポインセチアはこれまで花屋で見かけた事はあるが、名はそれまでは知らなかった。もらった鉢にさしてある木札で始めて知った。薬び・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・また江上の夏の夜の情趣も浮かぶであろう。 小銃弾の速度は毎秒九百メートルほどである。それで約一キロメートル前方の山腹で一斉射撃の煙が見えたら、それから一秒余おくれて弾が来て、それからまた二秒近くおくれて、はじめて音が聞こえるわけである。・・・ 寺田寅彦 「耳と目」
・・・ 同じく昔の郷里の夏の情趣と結びついている思い出の売り声の中でも枇杷葉湯売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に烏丸枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。 江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉女史の『たけくらべ』、広津柳浪の・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫