・・・肩よりも高くしげっている草の間を息せききってかけて来て、惰力で、まだ幾分駈け気味に段々とまりかけたとき、唇を開き息をはずまし、遠くまで逃げ終せたうれしさでこっそり笑っている女の子のわたしの前に、いきなり、ひょっこり蓬々と髪をのばした男の、黒・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・ コロコロコロ…… 一層惰力のついたロールは、「石! 早く石、石早く突支え!」 と云う叫びがまだ唇を離れないうちに、今の今まで見えていた人の寝姿を押し隠して、陰気に重々しく二三度ゴロッ、ゴロッと揺り返した。 そして、もう・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・それをやっと持ちこしてからは一種の惰力で働きつづけて行くという消極のなかで若いこれからの女性は乾いて萎れて行ってはならないと思う。職業なんて、どうせこんなもんだ、そういう気分に陥っては自分の若い貴重な命に対しもったいないと思う。 明日の・・・ 宮本百合子 「働く婦人の新しい年」
・・・謂わばそのために却って昔からの偽善的な夫婦生活の惰力を厭っているのである。アンネットは決心をして、婚約の青年と或る期間生活を共にした。母になる可能性を信じるようになって、その青年とは訣れてしまった。 これは作品の第一巻の部分をなしている・・・ 宮本百合子 「未開の花」
・・・他のプロドュクチイフの一面においては、かの文士としての生涯の惰力が、わずかに抒情詩と歴史との部分に遺残してウィタ、ミニマを営んでいる。 わたくしは詩を作り歌を詠む。彼は知人の采録するところとなって時々世間に出るが、これは友人某に示すにす・・・ 森鴎外 「なかじきり」
・・・それでいて、こんな催しをするのは、彼が忽ち富豪の主人になって、人を凌ぎ世に傲った前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫