・・・ 僕が迷信の深淵に陥っていた時代は、今から想うても慄然とするくらい、心身共にこれがために縛られてしまい、一日一刻として安らかなることはなかった。眠ろうとするに、魔は我が胸に重りきて夢は千々に砕かれる。座を起とうとするに、足あるいは虫を蹈・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 七兵衛はばったのような足つきで不行儀に突立つと屏風の前を一跨、直に台所へ出ると、荒縄には秋の草のみだれ咲、小雨が降るかと霧かかって、帯の端衣服の裾をしたしたと落つる雫も、萌黄の露、紫の露かと見えて、慄然とする朝寒。 真中に際立って、袖・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄然とした。 室内は寂然した。彼の言は、明晰に、口吃しつつも流暢沈着であった。この独白に対して、汽車の轟は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。 停車場に着くと、湧返ったその混雑さ。・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ そのかよわげに、かつ気高く、清く、貴く、うるわしき病者の俤を一目見るより、予は慄然として寒さを感じぬ。 医学士はと、ふと見れば、渠は露ほどの感情をも動かしおらざるもののごとく、虚心に平然たる状露われて、椅子に坐りたるは室内にただ渠・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・鳥がものをいうと慄然として身の毛が弥立った。 ほんとうにその晩ほど恐かったことはない。 蛙の声がますます高くなる、これはまた仰山な、何百、どうして幾千と居て鳴いてるので、幾千の蛙が一ツ一ツ眼があって、口があって、足があって、身体があ・・・ 泉鏡花 「化鳥」
・・・ 蝮の首を焼火箸で突いたほどの祟はあるだろう、と腹じゃあ慄然いたしまして、爺はどうしたと聞きましたら、と手柄顔に、お米は胸がすいたように申しましたが。 なるほど、その後はしばらくこの辺へは立廻りません様子。しばらく影を見ませんか・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――この時に慄然とした。 風はそのまま留んでいる。広い河原に霞が流れた。渡れば鞠子の宿と聞く……梅、若菜の句にも聞える。少し渡って見よう。橋詰の、あの大樹の柳の枝のすらすらと浅翠した下を通ると、樹の根に一枚、緋の毛氈を敷いて、四隅を美し・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・と技師が寄凭って、片手の無いのに慄然としたらしいその途端に、吹矢筒を密と置いて、ただそれだけ使う、右の手を、すっと内懐へ入れると、繻子の帯がきりりと動いた。そのまま、茄子の挫げたような、褪せたが、紫色の小さな懐炉を取って、黙って衝と技師の胸・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 小宮山は慄然として、雨の中にそのまま立停って、待てよ、あるいはこりゃ託って来たのかも知れぬと、悚然としましたが、何しろ、自宅へ背負い込んでは妙ならずと、直ぐに歩を転じて、本郷元町へ参りました。 ここは篠田が下宿している処であります・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・こう思って、何も知らずに、無心に遊びつゝある子供等の顔を見る時、覚えず慄然たらざるを得ないのであります。 朝に、晩に、寒い風にも当てないようにして、育てゝ来た子供を機関銃の前に、毒瓦斯の中に、晒らすこと対して、たゞこれを不可抗力の運命と・・・ 小川未明 「男の子を見るたびに「戦争」について考えます」
出典:青空文庫