・・・まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、ただ憫笑が残っているだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。何故我々を忠義の士とするためには、彼等を人畜生としなければならないのであろう。我々・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・おらが家の花も咲いたる番茶かな 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・ 彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光を浴びながら、健康に育った子供の時分のことを想いだして、不甲斐なくなった自分の神経をわれと憫笑していた。一度もまだはいって行ってみたことのない村の、黝んだ茅屋根は、若葉の出た果樹や杉の樹間に・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・と驚くと同時に、遊びではないといっても遊びにもなっておらぬような事をしていながら、遊びではないように高飛車に出た少年のその無智無思慮を自省せぬ点を憫笑せざるを得ぬ心が起ると、殆どまた同時に引続いてこの少年をして是の如き語を突嗟に発するに至ら・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・あなたに出来る精一ぱいの反抗は、たったそれだけなのですか、鳩売りの腰掛けを蹴散らすだけのことなのですか、と私は憫笑しておたずねしてみたいとさえ思いました。もはやこの人は駄目なのです。破れかぶれなのです。自重自愛を忘れてしまった。自分の力では・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・と言って、頬に幽かな憫笑を浮かべた。「僕は、だめだ。」そう言って、私には、腹にしみるものが在った。「けれども僕は、絶望していないんだ。酒だって、たまにしか飲まないんだ。冷水摩擦だって、毎日やっているんだ。」自分ながら奇妙と思われたような・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・女は、私の野暮を憫笑するように、くすと笑って馬鹿叮嚀にお辞儀をした。けれども箸は、とらなかった。 すべて、東京の場末の感じである。「眠くなって来た。帰ります。」なんの情緒も無かった。 宿へ帰ったのは、八時すぎだった。私は再び、さ・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・読むとしても、主人公の醜態を行っている描写の箇所だけを、憫笑を以て拾い上げて、大いに呆れて人に語り、郷里の恥として罵倒、嘲笑しているくらいのところであろう。四年まえ、東京で長兄とちょっと逢った時にも長兄は、おまえの本を親戚の者たちへ送ること・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」「疑うのが、正当の心構えなのだと、・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・魚に熱中して大損をした時の事を報告し、世の賢者たちに、なんだ、ばかばかしいと顰蹙せられて、私自身も何だか大損をしたような気さえしたのであるが、このたびの先生の花吹雪格闘事件もまた、世の賢者たちに或いは憫笑せられるかも知れない。けれども、あの・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫