・・・ こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違いない、消えそうな鉛筆の跡があります。「遠藤サン。コノ家ノオ婆サンハ、恐シ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・人と話しをしている時は勿論、独りでいる時でも、彼はそれを懐中から出して、鷹揚に口に啣えながら、長崎煙草か何かの匂いの高い煙りを、必ず悠々とくゆらせている。 勿論この得意な心もちは、煙管なり、それによって代表される百万石なりを、人に見せび・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服の襟が首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。 停車・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、叺の煙草入を懐中へ蔵うと、静に身を起して立ったのは――更めて松の幹にも凭懸って、縋って、あせって、煩えて、――ここから見ゆるという、花の雲井をいまはただ、蒼くも白くも、熟と城下の天の一方に眺・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・一冊は、夢中で我が家の、階子段を、父に見せまいと、駆上る時に、――帰ったかと、声がかかって、ハッと思う、……懐中に、どうしたか失せて見えなくなった。ただ、内へ帰るのを待兼ねて、大通りの露店の灯影に、歩行きながら、ちらちらと見た、絵と、かなが・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 八顆の明珠皆楚宝 就中一顆最も無双 妙椿八百尼公技絶倫 風を呼び雨を喚ぶ幻神の如し 祠辺の老樹精萃を蔵す 帳裡の名香美人を現ず 古より乱離皆数あり 当年の妖祟豈因無からん 半世売弄す懐中の宝 霊童に輸与す良玉珠 ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・そのはずみに、懐中の財布を落とすと、口が開いて、銀貨や、銅貨がみんなあたりにころがってしまったのでした。「あ、しまった!」と、按摩はあわてて両手で地面を探しはじめました。 指のさきは、寒さと、冷たさのために痛んで、石ころであるか、土・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・そのくせ彼は舗道の両側の店の戸が閉まり、ゴミ箱が出され、バタ屋が懐中電燈を持って歩きまわる時刻までずるずると街にいて彷徨をつづけ、そしてぐったりと疲れて乗り込むのは、印で押したようにいつも終電車である。 佐伯が帰って来る頃には、改札口の・・・ 織田作之助 「道」
・・・と、直ぐ家を飛び出して半丁程離れた弟の家へ行き懐中電燈を持って直ぐ来て呉れと言って、また走って帰りました。弟二人、次弟の妻、それの両親など飛んで来て瞳孔を視ましたが開いては居ません。弟達は直ぐ電報を打ったり医者を呼ぶために出かけて行きました・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 翁は狼狽てて懐中よりまっち取りだし、一摺りすれば一間のうちにわかに明くなりつ、人らしきもの見えず、しばししてまた暗し。陰森の気床下より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く豆洋燈に火を移しあたりを見廻わすまなざし鈍く、耳そばだてて「我子よ」と・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫