・・・と甲は水力電気論を懐中に押こんだ。 かくて仲善き甲乙の青年は、名ばかり公園の丘を下りて温泉宿へ帰る。日は西に傾いて渓の東の山々は目映ゆきばかり輝いている。まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ ある時、与助は、懐中に手を入れて子供に期待心を抱かせながら、容易に、肝心なものを出してきなかった。「なに、お父う?」「えいもんじゃ。」「なに?……早ようお呉れ!」「きれいな、きれいなもんじゃぞ。」 彼は、醤油樽に貼・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・アメリカ兵は橇の上から懐中電燈でうしろを照した。電気の光りで大きい手を右のポケットに突っこんで拳銃を握るのがちらっと栗本に見えた。「畜生! 撃つんだな。」 彼は立ったまゝ銃をかまえた。その時、橇の上から轟然たるピストルのひゞきが起っ・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了って、懐中の紙入から弾機の無い西洋ナイフのような総真鍮製の物を取出して、刃を引出して真直にして少し戻すと手丈夫な真鍮の刀子になった。それを手にして堤下を少しうろついていたが、何か掘っていると思うと・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・其間に男は立上って、手早く笛を懐中して了って歩き出した。雪に汚れた革足袋の爪先の痕は美しい青畳の上に点々と印されてあった。中 南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐というものの手によって論語が刊出され、其他文・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・道は遠し懐中には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 蜂谷は山家の人にしてもめずらしいほど長く延ばした鬚を、自分の懐中に仕舞うようにして、やがておげんの側を離れようとした。ふと、蜂谷は思いついたように、「小山さん、医者稼業というやつはとかく忙しいばかりでして、思うようにも届きません。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・宿屋の勘定も佐吉さんの口利きで特別に安くして貰い、私の貧しい懐中からでも十分に支払うことが出来ましたけれど、友人達に帰りの切符を買ってやったら、あと、五十銭も残りませんでした。「佐吉さん。僕、貧乏になってしまったよ。君の三島の家には僕の・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 失礼ながら、井伏さんは、いまでもそうにちがいないが、当時はなおさら懐中貧困であった。私も、もちろん貧困だった。二人のアリガネを合わせても、とてもその「後輩」たちに酒肴を供するに足りる筈はなかったのである。 しかし、事態は、そこまで・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・すなわち、今の土地家屋売買周旋業と云ったような商売で、口と足とさえ働かしておれば自然に懐中に金の這入って来る種類の職業であったらしい。五十近いでっぷり肥った赤ら顔でいつも脂ぎって光っていたが、今考えてみるとなかなか頭の善さそうな眼付きをして・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
出典:青空文庫