・・・ど思いつづくるにつけて、竹屋の渡しより待乳山あたりのありさま眼に浮び、同じ川のほとりなり、同じ神の祠なれど、此処と彼処とのおもむきの違えば違うものよなど想いくらべて、そぞろに時を移せしが、寒月子の図も成りたれば、いざとて立ち出ず。 末野・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・其題に曰く学術技科の進闡せしをば人の心術風俗に於て益有りしと為す乎将た害ありしと為す乎とルーソー之を読みて神気俄に旺盛し、意思頓に激揚し自ら肺腸の一変して別人と成りしを覚え、殆ど飛游して新世界に跳入せしが如し。因て急に鉛筆を執りファプリシュ・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・るほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点しやがて本文通りなまじ同伴あるを邪魔と思うころは紛れもない下心、いらざるところへ勇気が出て敵は川添いの裏二階もう掌のうちと単騎馳せ向いたるがさて行義よくては成りがたいがこの辺の辻占淡路島通う千鳥の・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「何だか俺はほんとに狂にでも成りそうだ」 とおげんは半分串談のように独りでそんなことを言って見た。耳に聞く蛙の声はややもすると彼女の父親の方へ――あの父親が晩年の月日を送った暗い座敷牢の格子の方へ彼女の心を誘った。おげんは姉弟中で一・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・河原続きの青田が黄色く成りかける頃には、先生の小さな別荘も日に日に形を成して行った。霜の来ないうちに早くと、崖の上でも下でも工事を急いだ。 雪が来た。谷々は三月の余も深く埋もれた。やがてそれが溶け初める頃、復た先生は山歩きでもするような・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・これ陰陽思想によりて占星家の手に成りしものなるを考へしむる也。その理は十二宮は太陽運行に基き、二十八宿は太陰の運行に基きしものなれば、陽の初なる東とその極なる南とを十二宮に、陰の初の西とその極の北とを二十八宿の星座に據らしめしものと見らるれ・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・私も、既に四十ちかくに成りますが、未だ一つも自身に納得の行くような、安心の作品を書いて居りませんし、また私には学問もないし、それに、謂わば口重く舌重い、無器用な田舎者でありますから、濶達な表現の才能に恵まれている筈もございません。それに加え・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・事毎にいい子に成りたがるからいけないのだ。編輯上にも色々変った計画があったのだが、気おくれがして一つもやれなかった。心にも無い、こんなじみなものにして了った。自分の小才を押えて仕事をするのは苦しいもんであると僕は思う。事実とても苦しかった。・・・ 太宰治 「喝采」
・・・前の十場面は脚本で読ませておいて大切り一場面だけ見せてもいいかもしれない、とも考えられるが、それでは登場人物が劇中人物に成り切るだけの時間が足りないであろう。役者が劇中人物に成り切るまでにはやはり相当な時間がかかるからである。 最後の法・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・これが若葉の縁に鈴成りに黒い頭を並べて、驚くべき食慾をもって瞬く間にあらゆる葉を食い尽さないではおかない。去年はこの翡翠の色をした薔薇の虫と同種と思われるものが躑躅にまでも蔓延した。もっともつつじのは色が少し黒ずんでいて、つつじの葉によく似・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
出典:青空文庫