・・・と話を元へ戻す。「うん注意はさせるよ。しかし万一の事がありましたらきっと御目に懸りに上りますなんて誓は立てないのだからその方は大丈夫だろう」と洒落て見たが心の中は何となく不愉快であった。時計を出して見ると十一時に近い。これは大変。うちで・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・と金の鎖りを押戻す。女は身動きもせぬ。鎖ばかりは敷石の上に落ちて鏘然と鳴る。「いかにしても逢う事は叶わずや」と女が尋ねる。「御気の毒なれど」と牢守が云い放つ。「黒き塔の影、堅き塔の壁、寒き塔の人」と云いながら女はさめざめと泣く。・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 蕪村の句の理想と思しきものを挙ぐれば河童の恋する宿や夏の月湖へ富士を戻すや五月雨名月や兎のわたる諏訪の湖指南車を胡地に引き去る霞かな滝口に燈を呼ぶ声や春の雨白梅や墨芳ばしき鴻臚館宗鑑に葛水たまふ大臣かな・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・サラリーマンから、再び、人民の声を反映し、同時に木鐸たる記者に、自身の本質をとり戻すジャーナリストたちの新しい希望と、それに対する数千万の人々の期待は、互に苦しい時代を経ているだけに、決して表面の交歓ではないと信じている。〔一九四五年十・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
・・・大人が、あなたがたの生きかたを眺めたとき、かつては自分たちも、あのように濁りない瞳、あのように真直な心とをもっていたのだと感動をもって思いかえし、一刻なりとも素直な心をとり戻すように、其位健やかに、熱心に、よく生きようと励んで下さい。 ・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・ 夫婦は相談して、とにかく一月分だけは明日渡して、栄蔵の村の者へ貸してあるものがあるから、あれを戻す様に尽力してもらって、入ったものの中から出した方が相方都合がいいときめた。「ああ云う病気は殆んど一生の病気なんですからねえ。・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ もしもしお嬢さん、大変古風なおこのみですが、あなたの御盛装が意味しているとおり、民法が昔にかえって、婦人の地位を男子に隷属したものに戻すとしたら、どうお思いでしょうか、と。きかれた娘さんは、きっとしごきの房をはげしくゆるがして、そんな・・・ 宮本百合子 「今年こそは」
・・・三年前の文芸復興の声につれて、日本におこったロマン派、現在保田与重郎氏等によって提唱されている日本ロマン派が、素朴に過去へ飛躍して、ギリシア文化や万葉の文化、王朝文化を云々することが現実の文化を逆に引戻す作用をしていることが意味されているの・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・伴三が本郷の本屋で、高等学校の生徒が自分の本をしばらくひらいて立読みし、やがて卒然感興を失った表情でそれを乱暴に本棚へ戻すのを目撃していて受けた苦痛の感情は、「強者連盟」全篇の中でも、亮子のいわゆる心をどうかしそうにまで肉薄した描写である。・・・ 宮本百合子 「十月の文芸時評」
・・・ 一面紫色にかすみわたる黎明の薄光が、いつか見えない端し端しから明るんで、地は地の色を草は草自身の色をとり戻すように、彼女の周囲のあらゆる事物は、まったく「いつの間にか」彼等自身の色と形とをもって、ありのまま彼女の前に現われるようになっ・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫