・・・ されども渠は聞かざる真似して、手早く鎖を外さんとなしける時、手燭片手に駈出でて、むずと帯際を引捉え、掴戻せる老人あり。 頭髪あたかも銀のごとく、額兀げて、髯まだらに、いと厳めしき面構の一癖あるべく見えけるが、のぶとき声にてお通を呵・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ 蝋燭にホヤをはめた燭台や手燭もあったが、これは明るさが不充分なばかりでなく、何となく一時の間に合せの燈火だというような気がする。それにランプの焔はどこかしっかりした底力をもっているのに反して、蝋燭の焔は云わば根のない浮草のように果敢な・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
・・・途端に裸ながらの手燭は、風に打たれて颯と消えた。外は片破月の空に更けたり。 右手に捧ぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・水の粉やあるじかしこき後家の君尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜柚の花や能酒蔵す塀の内手燭して善き蒲団出す夜寒かな緑子の頭巾眉深きいとほしみ真結びの足袋はしたなき給仕かな宿かへて火燵嬉しき在処 後の形容詞を用・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・筆がにぶるといつもやわらかい手が自分の手を持ちそえるような気持がして早く、かるく、美くしく筆が動くんでした。手燭をもって母が入って来ました。母「貴方まだ書くんですか、つかれて居るんでしょう、もうおやすみなさい、私ももうねますからネ、また・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
出典:青空文庫