・・・あなたは聴きませんでしたね。するとある日の事、たしか午後にわたくしの所にいらっしゃった時でした。あなたは手紙をお落しなすったのです。わたくしはお帰りになったあとで気が附きました。その手紙に書いてあった文句はこうでした。「明日のオペラ座の切符・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・彼女はその日まだ良人から手紙を受けとっていなかった。暫くすると、灸の頭の中へ女の子の赤い着物がぼんやりと浮んで来た。そのままいつの間にか彼は眠ってしまった。 翌朝灸はいつもより早く起きて来た。雨はまだ降っていた。家々の屋根は寒そうに濡れ・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・そして云うには、ことしの五月一日に、エルリングは町に手紙をよこして、もう別荘の面白い季節が過ぎてしまって、そろそろお前さんや、避暑客の群が来られるだろうと思うと、ぞっとすると云ったと云うのである。「して見ると、あなたの御贔屓のエルリング・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・口の内で何かつぶやきながら、病気な弟がニッツアからよこした手紙を出して読んで見た。もうこれで十遍も読むのである。この手紙の慌てたような、不揃いな行を見れば見る程、どうも自分は死にかかっている人の所へ行くのではないかと思うような気がする。そこ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・沈んだ心持ちで書き始めたこの手紙をとりとめもなく書きつづけて行く内に、私は興奮して五体に力の充ちたことを感ずるようになりました。あなたは喜んでくださるでしょう。あなたに読んでいただくずっと前に、あなたに手紙を書いたという事だけで私にはもう効・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫