・・・何しろこう下腹が押し上げられるように痛いと云うんですから――」「ははあ、下腹が押し上げられるように痛い?」 戸沢はセルの袴の上に威かつい肘を張りながら、ちょいと首を傾けた。 しばらくは誰も息を呑んだように、口を開こうとするものが・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。「この野郎! 誰に断ってトロに触っ・・・ 芥川竜之介 「トロッコ」
一 吉田は肺が悪い。寒になって少し寒い日が来たと思ったら、すぐその翌日から高い熱を出してひどい咳になってしまった。胸の臓器を全部押し上げて出してしまおうとしているかのような咳をする。四五日経つともうすっかり・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊へとんで帰った。「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」 営門で捧げ銃をし・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そう言って顔を伏せ、眼鏡を額に押し上げ、片手で両眼をおさえた。 ふと気がつくと、いつの間にか私の背後に、一ばん上の姉が、ひっそり坐っていた。 太宰治 「故郷」
・・・アグリパイナは、こんなに、ネロを大事に、大事に育て、ネロを王位にまで押し上げてやりたく思って、あらゆる悪計を用いる。はては、クロオジヤスの后になりすまして、そうしてクロオジヤスを毒殺する。それから、もっともっと悪いことをする。おかげでネロは・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ と母が眼鏡を額のほうへ押し上げて女中に訊ねましたら、女中は、軽く咳をして、あの、芹川さまのお兄様が、お嬢さんに鳥渡、と言いにくそうに言って、また二つ三つ咳をいたしました。私は、すぐ立って廊下に出ました。もう、わかってしまったような気がして・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・ 自分はやむをえず餌壺を持ったまま手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開いた口をすぐ塞いだ。鳥はちょっと振り返った。そうして、ちちと鳴いた。自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙を窺って逃げるような鳥とも見えな・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・文学以前の問題として一般に感じられたこの槓杆の行動的なまた能動的な押し上げは、行動の目的のある一貫性にまたなければ現実性を与えられないのであるが、当時、行動主義を唱えた作家達は、それぞれの属している社会層の小市民的な動揺性に於て数年来の不安・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・ 電車へお清を押し上げ、窓から歩道に向って頭を下げた彼女を乗せたままそれが動き出すと、油井はみのえを連れ、ぶらぶら歩き出した。「ちょっと日比谷でも散歩して行きましょう、ね」 彼等は公園の池の汀に長い間いた。噴水が風の向のかわるに・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
出典:青空文庫