・・・何となく極りわるそうに、まぶしい様な風で急いで通り過ぎて終う。拠処なく物を云うにも、今までの無遠慮に隔てのない風はなく、いやに丁寧に改まって口をきくのである。時には僕が余り俄に改まったのを可笑しがって笑えば、民子も遂には袖で笑いを隠して逃げ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 喫茶店や料理店の軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・の後半に至り、人物の思考が美術工芸の世界へ精神的拠り所を求めることによって肉体をはなれてしまうと、にわかに近代小説への発展性を喪失したのも、この野心的作家の出発が志賀直哉にはじまり、志賀直哉以前の肉体の研究が欠如していたからではあるまいか。・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・二十五歳までに青年がその童貞を保持するに耐えないという理拠があるであろうか。また本人の一生の幸福から見て、そうすることが損失であろうか。私は経験から考えてそうは思われない。女を知ることは青春の毒薬である。童貞が去るとともに青春は去るというも・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・それかと云って、もう少し気楽なところでは、卓布や食器がひどく薄汚かったり、妙に騒々しかったり、それよりも第一料理が重苦しくて、自分の胃には拠なく負担が過ぎるのである。 そういう点で、自分の六かしい要求に比較的よくはまるのが、このA町の家・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・少なくも吾人の科学に信拠すればそうなるはずである。また全天体の片隅で行われているあらゆる変化は必ず吾人の身辺にも幾分の影響を及ぼしているはずである。宇宙間無限の物象の影響を受けている身辺の現象について如何にして有限な言葉をもって何事かを云い・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・無拠教程を鵜呑にする結果は知識に対する消化不良と食慾不振である。 教えるためには教えないことが肝心である。もう一杯というところで膳を取り上げ、もう一と幕と思うところで打出しにするという「節制」は教育においてもむしろ甚だ緊要なことではない・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・奥さんはおいでになるが、お逢いにならないと云うのかい。」「いいえ。奥さんは拠ない御用がおありなさいますので、お出掛けになりました。いずれお手紙をお上げ申しますとおっしゃいました。」こう云ってしまって、下女は笑声を洩した。 オオビュル・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・人間に対する真実の拠り所が心の内で失われた感じ。その虚無的な心持をどこへ、どう建て直すべきだろうか。人民に絶対服従を強いて来たこれまでの抑圧は、彼に正当な人民の権利の自覚に立戻って自分の破滅を救う方面に順序だてて物を考えさせる自主的な判断力・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・何か拠があって書いたものか。それとも独創の文字か。 かわるがわる泉を汲んで飲む。 濃い紅の唇を尖らせ、桃色の頬を膨らませて飲むのである。 木立のところどころで、じいじいという声がする。蝉が声を試みるのである。 白い雲が散って・・・ 森鴎外 「杯」
出典:青空文庫