・・・ 振り向くと、折井という神田の不良青年であった。折井は一年前にしきりに自分を尾け廻していたことがあり、いやな奴と思っていたが、心の寂しい時は折井のような男でも口を利けば慰さめられた。 並んで歩き出すと折井は、「どうだ、これから浅・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。―― 町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そし・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・しかし一たん見まいと決心したからには意地が出て振り向くのが愧かしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たり得るや否やの分かれ目のような気がして来た。 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入るようでそれが気にな・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶の鉄砧の音高く響きて夕闇に閃く火花の見事なる、雨降る日は二十ばかりの女何事をかかしましく叫びつ笑いて町の片側より片側へとゆくに傘ささず襟頸を縮め駒下駄つまだてて飛ぶごとに後ろ振り向くさまのおかしき、いずれかこの町も・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 帰りかけて、うしろへ振り向くと、ガーリヤは、雪の道を辷りながら、丘を登っていた。「おい、いいかげんにしろ。」炊事場の入口から、武石が叫んだ。「あんまりじゃれつきよると競争に行くぞ!」 五 吉永の中隊は、大隊から・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・という。振り向くと、馬の鼻が肩のところに覗いている。小走りに百姓家の軒下へ避ける。そこには土間で機を織っている。小声で歌を謡っている。「おおい」と言って馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通り抜ける。蜜柑を積ん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・宿を出て、バスに乗り、振り向くと、娘さんが、少し笑って私を見送り急にぐしゃと泣いた。娘さんは、隣りの宿屋に、病身らしい小学校二、三年生くらいの弟と一緒に湯治しているのである。私の部屋の窓から、その隣りの宿の、娘さんの部屋が見えて、お互い朝夕・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。面目なげに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。 私も、もう大人である。いたずらな感傷はなかった。すぐ事態を察知した。薬品が効かなかったのだ。うなずいて、もうすでに私は、白・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・僕は新宿の駅前で、肩をたたかれ、振り向くと、れいの林先生の橋田氏が微醺を帯びて笑って立っている。「眉山軒ですか?」「ええ、どうです、一緒に。」 と、僕は橋田氏を誘った。「いや、私はもう行って来たんです。」「いいじゃありま・・・ 太宰治 「眉山」
・・・ もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服を着て立っている。肩には釣竿をかついでいる。「いや、釣れるものではありません。」へんな言いかたである。「そうですか。」令嬢は笑った。二十歳にはなるまい。歯が綺麗だ。眼が綺麗だ。喉は・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
出典:青空文庫