・・・先ず初めは、浴槽の水を掻き廻さないで、水面二、三寸のところへ寒暖計の球をさしこんで、所定の温度に達した頃に報知して来るのだから、かき廻さないで飛び込めば上の方は適温だが、底の方はまだ水である。掻き交ぜれば、ぬるくてふるえ上がってしまう。また・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・ 善ニョムさんは、片手を伸すと、一握りの肥料を掴みあげて片ッ方の団扇のような掌へ乗せて、指先で掻き廻しながら、鼻のところへ持っていってから、ポンともとのところへ投げた。「いい出来だ、これでお天気さえよきゃあ豊年だぞい」 善ニョム・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・座敷には、刎返した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・西瓜の粒が大きく成るというので彼は秋のうちに溝の底に靡いて居る石菖蒲を泥と一つに掻きあげて乾燥して置く。麦の間を一畝ずつあけておいてそこへ西瓜の種を下ろす。畑のめぐりには蜀黍をぎっしり蒔いた。麦が刈られてからは日は暑くなる。西瓜の嫩葉は赤蠅・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜のために手と名づけ足と名・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 私は頭を抱えながら、滅茶苦茶に沢山な考えを、掻き廻していた。そして、私の手か頭かに、セコンドメイトの手の触れるのを待っていた。 私は、おそらく、五分間もそうしていた。だが、手は私に触れなかった。 私は顔を上げた。 私を通り・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・見ると、一人の変に鼻の尖った、洋服を着てわらじをはいた人が、鉄砲でもない槍でもない、おかしな光る長いものを、せなかにしょって、手にはステッキみたいな鉄槌をもって、ぼくらの魚を、ぐちゃぐちゃ掻きまわしているのだ。みんな怒って、何か云おうとして・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・見ているとそれほどでないのに、姿の見えない離れたところできくと、それは大きい凄じい掻き音である。それでもまだ人は近づけず、景清らしく秋の日に照されている。 黒子だらけの顔 いま住んでいる家で二階の南縁に立つと、・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・額際から顱頂へ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後へ向けて掻き上げたのが、日本画にかく野猪の毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻に、嘲笑的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧に似た、深い皺を寄・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・彼の爪が勃々たる雄図をもって、彼の腹を引っ掻き廻せば廻すほど、田虫はますます横に分裂した。ナポレオンの腹の上で、東洋の墨はますますその版図を拡張した。あたかもそれは、ナポレオンの軍馬が破竹のごとくオーストリアの領土を侵蝕して行く地図の姿に相・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫