・・・ですからその夜は文字通り一夕の歓を尽した後で、彼の屋敷を辞した時も、大川端の川風に俥上の微醺を吹かせながら、やはり私は彼のために、所謂『愛のある結婚』に成功した事を何度もひそかに祝したのです。「ところがそれから一月ばかり経って(元より私・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ こう云う物音は一つ一つ、文字通り陳の心臓を打った。陳はその度に身を震わせながら、それでも耳だけは剛情にも、じっと寝室の戸へ押しつけていた。しかし彼の興奮が極度に達している事は、時々彼があたりへ投げる、気違いじみた視線にも明かであった。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・夜はまた彼女の夜着の裾に、まろまろ寝ている犬を見るのが、文字通り毎夜の事だった。「その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造の寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、――」 婆さんが・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・が、それは、文字通り時々で、どちらかと云えば、明日の暮しを考える屈託と、そう云う屈託を抑圧しようとする、あてどのない不愉快な感情とに心を奪われて、いじらしい鼠の姿も眼にはいらない事が多い。 その上、この頃は、年の加減と、体の具合が悪いの・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・あいにくの吹き降りで、不二見村の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹が、青い杓子をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡を後ろにして、夏目先生の「草枕」の一節を思い出させたのは、今でも歴・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・また画そのものも、ただ濁った水と、湿った土と、そうしてその土に繁茂する草木とを描いただけだから、恐らく尋常の見物からは、文字通り一顧さえも受けなかった事であろう。 その上不思議な事にこの画家は、蓊鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・「価値測定器と云うのは何です。」「文字通り、価値を測定する器械です。もっとも主として、小説とか絵とかの価値を、測定するのに、使用されるようですが。」「どんな価値を。」「主として、芸術的な価値をです。無論まだその他の価値も、測・・・ 芥川竜之介 「MENSURA ZOILI」
・・・最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾が、・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗を感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。ま・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 落盤を気づかっていた爺さんが文字通りスルメのように頭蓋骨も、骨盤も、板になって引っぱり出された。 うしろの闇の中で待っていたその娘は、急にへしゃげてしまった親爺の屍体によりかゝって泣き出した。「泣くでない。泣くでない。泣いたっ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
出典:青空文庫