・・・それに斜光の工合で、蜃気楼のようにもう一つ二子山の巓が映っている。広い、人気のない渚の砂は、浪が打ち寄せては退くごとに滑らかに濡れて夕焼に染った。「もう大島見えないわね」「――雪模様だな、少し」 風がやはり吹いた。海が次第に重い・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・午後の斜光を背後から受けてキラキラ光る薄の穂、黄葉した遠くの樹木、大根畑や菜畑の軟かい黒土と活々した緑の鮮やかな対照。 九品仏は今は殆ど廃寺に等しい。本堂の裏に三棟独立した堂宇があり、内に三対ずつの仏像を蔵している。徳川時代のものだろう・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・ 七月十二日夕暮五時の斜光静かに 原稿紙の上におちてわが 心を誘う。――純白な紙、やさしい点線のケイの中に何を書かせようと希うのか深みゆく思い、快よき智の膨張私は 新らしい仕事にかかる前愉し・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・ 人影ないそっちの小径には、葉茂みの片側だけ午後の斜光に照し出された蜀葵の紅い花がある。男の一人、歩きつつ莨に火をつけた。 鳥打帽の若者は、まだ下絵を描いている。写生の日傘も動かない。ほんの少し風が渡り、夥しい草の葉が、軟い音、・・・ 宮本百合子 「百花園」
・・・向うの黒い森も池の水の面も、そこに浮んでいる一つのボートも、気味わるく赤い斜光に照らされて凝っとしている中に、何かが立っている。青白いような顔半分がこっちに見えるのだけれど、そのほかのところは朦朧として、胸のところにかーっと燃え立つような色・・・ 宮本百合子 「本棚」
・・・向い側の店々が正面から午後の斜光を受けている。ダーリヤが窓のそばへ歩きよる毎に、日除けの下に赤いエナメルの煙草屋の商牌が下っているのが見えた。タバコ。コバタ。バタコ。――それは色々に読むことが出来た。―― 三時過て、レオニード・グレゴリ・・・ 宮本百合子 「街」
出典:青空文庫