・・・娼家の跡は商舗または下宿屋の如きものとなったが、独八幡楼の跡のみ、其の庭園の向ヶ岡の阻崖に面して頗幽邃の趣をなしていたので、娼楼の建物をその儘に之を温泉旅館となして営業をなすものがあった。当時都下の温泉旅館と称するものは旅客の宿泊する処では・・・ 永井荷風 「上野」
・・・とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思われる。その名前や何かはこれを詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿があって、芸妓をつれて泊りに行くもの・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ようよう四、五日かかって、一段落がついた時、自分はまた汽車に揺られながら、まだ見ないHの町や、その町の中にある重吉の下宿している旅館などを、頭の奥に漂う画のようにながめた。もとよりものずきのさせるわざだから、煙草の煙に似て、取り留めることの・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・所は神田川である。旅館に落ち合って、あすこにしよう、ここにしようと評議をしている時に、君はしきりに食い物の話を持ち出した。中華亭とはどう書いたかねと余に聞いた事を覚えている。神田川では、満洲へ旅行した話やら、露西亜人に捕まって牢へぶち込まれ・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・秋の日影は次第に深く、旅館の侘しい中庭には、木々の落葉が散らばっていた。私はフランネルの着物を着て、ひとりで裏山などを散歩しながら、所在のない日々の日課をすごしていた。 私のいる温泉地から、少しばかり離れた所に、三つの小さな町があった、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。」「なるほどこりゃ御城山に登る新道だナ。男も女も馬鹿に沢山上って行くがありゃどういうわけぞナ。」「あれは皆新年官民懇親会に行くのヨ。」「そ・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・けれども、藤村氏は、どういう好尚から、その出発の前夜に勘当していた蓊助を旅館によんで、勘気をゆるしたのであったろう。藤村氏自身の青年時代を考えいろいろすると、勘当そのものが解せないようにもある。微妙な事情があって、そういう形式がとられたとし・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
朝、めをさまして、もう雨戸がくられている表廊下から外を見て私はびっくりしたし、面白くもなった。私たちの泊った虎丸旅館というのは、琴平の大鳥居のほんとの根っこのところにあるのであった。廊下から眺める向い側の軒下は、ズラリと土・・・ 宮本百合子 「琴平」
・・・市太夫は和尚の旅館に往って一部始終を話して、権兵衛に対する上の処置を軽減してもらうように頼んだ。和尚はつくづく聞いて言った。承れば御一家のお成行き気の毒千万である。しかし上の御政道に対してかれこれ言うことは出来ない。ただ権兵衛殿に死を賜わる・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・相役聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、旅館の床の間なる刀掛より刀を取り、抜打に切つけ候。某が刀は違棚の下なる刀掛に掛けあり、手近なる所には何物も無之・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫