・・・右手の方の空間で何かキラキラ光るものがあると思ってよく見ると、日本橋の南東側の河岸に聳え立つあるビルディングの壁面を方一尺くらいの光の板があちらこちらと這い廻っている。それが一階の右の方の窓を照らすかと思っていると急に七階の左の方へ飛んで行・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・いつか須田町で乗換えたときに気まぐれに葉巻を買って吸付けたばかりに電車を棄権して日本橋まで歩いてしまった。夏目先生にその話をしたら早速その当時書いていた小説の中の点景材料に使われた。須永というあまり香ばしからぬ役割の作中人物の所業としてそれ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
一 花火 一月二十六日の祝日の午後三時頃に、私はただあてもなく日本橋から京橋の方へあの新開のバラック通りを歩いていた。朝よく晴れていた空は、いつの間にかすっかり曇って、湿りを帯びた弱い南の風が吹いていた。・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 京橋区内では○木挽町一、二丁目辺の浅利河岸○新富町旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町旧居留地の中央を流れた溝渠。むかし見当橋のかかっていた川○八丁堀地蔵橋かかりし川、その他。 日本橋区内では○本柳橋かかりし薬研堀の溝渠・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・それは大川口から真面に日本橋区の岸へと吹き付けて来る風を避けようがためで、されば水死人の屍が風と夕汐とに流れ寄るのはきまって中洲の方の岸である。 自分が水泳を習い覚えたのは神伝流の稽古場である。神伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ抛り出されたような心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家に帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾が神経の繊維もつい・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・――夕方、東京で云えば日本橋のようなクズニェツキー・モーストの安全地帯で電車を待った。 チン、チン、チン。 ベルを鳴らして疾走して来る電車はどれも満員だ。引け時だからたまらない。群衆をかきわけて飛び出した書類入鞄を抱え瘠せた赤髭の男・・・ 宮本百合子 「「鎌と鎚」工場の文学研究会」
・・・ほら、いつぞや、若竹をたべた日本橋の小料理や、あすこの持家で、気に入るかどうか、屋根は茅です。」そして、その辺の地理の説明がこまかに書かれていた。鎌倉といっても大船駅で降り、二十何町か入った山よりのところ、柳やという旅籠屋があって風呂と食事・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 詮吉は日本橋の方に商人暮しをしているのだが、絵でも習いたい、そういう趣味の幾分かある若者なのであった。 三階は、湯治客のすいている時なので空部屋が多い。静かな廊下を、二人はスケッチをもって、総子のいる方へ戻った。「長い大神楽だ・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・未の刻に佐久間町二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫