・・・唖々子は高等学校に入ってから夙くも強酒を誇っていたが、しかしわたしともう一人島田という旧友との勧める悪事にはなかなか加担しなかった。然るにその夜突然この快挙に出でたのを見て、わたしは覚えず称揚の声を禁じ得なかったのだ。「何の本だ。」とき・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・さりとて旧友の好意を無にするは更に一層忍びがたしとする所である。 窮余の一策は辛うじて案じ出された。わたしは何故久しく筐底の旧稿に筆をつぐ事ができなかったかを縷陳して、纔に一時の責を塞ぐこととした。題して『十日の菊』となしたのは、災後重・・・ 永井荷風 「十日の菊」
中洲の河岸にわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はその後箱崎川にかかっている土洲橋のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・伊予にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の報知を聞いて今度は辞退の方を目出たく思ったそうである。貰っても辞してもどっちにしても賀すべき事だというのがこの友の感想であるとかいって来た。そうかと・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
・・・君と余とは中学時代以来の親友である、殊に今度は同じ悲を抱きながら、久し振りにて相見たのである、単にいつもの旧友に逢うという心持のみではなかった。しかるに手紙にては互に相慰め、慰められていながら、面と相向うては何の語も出ず、ただ軽く弔辞を交換・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・人類の精神の流れが、根柢まで破壊された旧友朋の上に、新たな、健かな、生存の意義を見出そうとしている。非常な不健康や欠乏は、一時も早く改善され、互に、終局の目標に進めることが大切である。 広くもない地球の上で、幾千万と云う人間が、飢え渇え・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・当時流行作家であったと共に一部からは権威とも目されていた芥川龍之介が、昭和二年七月「或旧友へ送る手記」を残して三十歳の生涯を終るに至った内外の動機は何であったろう。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやり・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・漱石の旧友が訪ねて行って、同じようにして迎えられたとき、「いやに威張っているじゃないか」と言ったという話を、その後聞いたことがあるが、人によるとこの態度を気取りと受け取ったかもしれない。しかし私はどこにもポーズのあとを感じなかった。因襲的な・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫