・・・その恐ろしい山々の一ト列りのむこうは武蔵の国で、こっちの甲斐の国とは、まるで往来さえ絶えているほどである。昔時はそれでも雁坂越と云って、たまにはその山を越して武蔵へ通った人もあるので、今でも怪しい地図に道路があるように書いてあるのもある。し・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・今の今まで太郎坊を手放さずおったのも思えば可笑しい、その猪口を落して摧いてそれから種々と昔時のことを繰返して考え出したのもいよいよ可笑しい。ハハハハ、氷を弄べば水を得るのみ、花の香は虚空に留まらぬと聞いていたが、ほんとにそうだ。ハハハハ。ど・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・中仙道熊谷より荒川に沿い寄居を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを昔時は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。今は汽車の便ありて深谷より寄居に至る方、熊谷より寄居に至るよりもやや近ければ、深谷まで汽車にて行き越し、そこより馬・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・「ありがてえ、昔時からテキパキした奴だったッケ、イヨ嚊大明神。と小声で囃して後でチョイと舌を出す。「シトヲ、馬鹿にするにも程があるよ。 大明神眉を皺めてちょいと睨んで、思い切って強く帚で足を薙ぎたまう。「こんべらぼうめ。・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 汽車の上り下りには赤帽が世話をする、車中では給仕が世話をする、食堂車がある、寝台車がある、宿屋の手代は停車場に出迎えて居る、と言ったような時世になったのですから、今の中等人士は昔時の御大名同様に人の手から手へ渡って行って、ひどく大切に・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・よしやそれほど簡単な場合でなくとも、有限な個体の間に有限な関係があるだけの宇宙ならば、万象はいつかは昔時の状態そのままに復帰して、少なくも吾人のいわゆる物理的世界が若返る事は可能である。このような世界の「時」では、未来の果ては過去につながっ・・・ 寺田寅彦 「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
・・・もし戻ってもそれは全く新なる形式内容を有するもので、浅薄なる観察者には昔時に戻りたる感じを起させるけれども、実はそうではないのであります。しこうして自然主義に反動したものとするならば、新ローマン主義ともいうべきものは、自然主義対ローマン主義・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
出典:青空文庫