高浜さんとはもうずいぶん久しく会わないような気がする。丸ビルの一階をぶらつく時など、八階のホトトギス社を尋ねて一度昔話でもしてみたいような気のすることがある。今度改造社から「虚子の人と芸術」について何か書けと言われたについ・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・子供等の亡祖父の若かった頃の昔話もしばしば出る。私自身が子供の時分に幾度も聞かされた話が、また同じ母の口から出るのを聞いていると、それがもう遠い遠い昔の出来事であって、数年前まで生きていた私の父に関する話とは思われないような気がする。まして・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・しかし凹字形に並べられたテーブルに、彼を中心として暫く昔話が続けられた。その中、彼は明日遠くへ行かねばならぬというので、早く帰った。多くの人々は彼を玄関に見送った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消え去った。・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・こんなさっぱりと四角い紙に気持よく朱の線の通っている原稿紙がやがて、昔話になるかもしれませんね。 炭には困るわ。あなたのお仕事は羨しいと存じます。だって一心に練習なさっているとき、舞台にいらっしゃるとき、云ってみれば寒さ知らずでいらっし・・・ 宮本百合子 「裏毛皮は無し」
・・・ 海辺だから、魚の心配だけはないなどと云っていたのは昔話だと、母ともどもすこしあっけにとられて東京へ帰って来た。 東京駅でスーツ・ケースをうけとってくれたひとが、先ず訊いたのは、あっちでは野菜はどうだった? ということであった。日本・・・ 宮本百合子 「主婦意識の転換」
・・・ゴーリキイの不安な毎日の中で、たった一つのよろこびと慰めとなったのは、おばあさんでした。昔話が此上なく上手で、人間は、辛棒づよく正しく親切をつくし合って生きるべきものであることをいつもゴーリキイ対手に話してきかせたこの太った大きいおばあさん・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイについて」
・・・り離れた郡山の町から一直線の新道がつくられて、そのポクポク道をやって来たものはおのずから村を南北に貫通している大通りへぶつかり、その道を真っ直ぐ突切ると爪先上りの道は同じ幅で松の植込みのある、いくらか昔話の龍宮に似た三層楼の村役場の玄関へ導・・・ 宮本百合子 「村の三代」
母かたの祖母も父かたの祖母も長命な人たちであった。いずれも九十歳近くまで存生であったから、総領の孫娘である私は二人のおばあさんから、よく様々の昔話をきいた。母方の祖父も父方の祖父も、私が三つぐらいのとき既に没して、いずれも・・・ 宮本百合子 「明治のランプ」
・・・あそこで大きな白熊がうろつき、ピングィン鳥が尻を据えて坐り、光って漂い歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありそうな海象が群がっている。あそこにまた昔話の磁石の山が、舟の釘を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き付けている地極の秘密が眠っている。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・あの大きなストーブを囲み祖父さんが孫に取り巻かれて昔話に興をやる。夫婦はこの一日の物語に疲れを忘れて互いに笑みかわす。楽しき家庭があればこそ朝より夕まで一息に働いた。暖かき家庭には愛が充つ。愛の充つ所にはすべての徳がある。宇宙の第一者に意識・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫