・・・自分は神田の古本屋を根気よくあさりまわって、欧洲戦争が始まってから、めっきり少くなった独逸書を一二冊手に入れた揚句、動くともなく動いている晩秋の冷い空気を、外套の襟に防ぎながら、ふと中西屋の前を通りかかると、なぜか賑な人声と、暖い飲料とが急・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・物の輪郭が円味を帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんとした寒い晩秋の夜が来た。 着物は薄かった。そして二人は餓え切っていた。妻は気にして時々赤坊を見た。生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ともかく私たちは幸に怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。それは私にどれ程の力だったろう。お前たちの母上は程なくK海岸にささや・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 或る冴えた晩秋の朝であった。霜の上には薄い牛乳のような色の靄が青白く澱んでいた。私は早起きして表戸の野に新聞紙を拾いに出ると、東にあった二個の太陽を見出した。私は顔も洗わずに天文学に委しい教授の処に駈けつけた。教授も始めて実物を見ると・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・ 夜雨戸を閉めるのはいずれ女中の役目だろう故、まえもってその旨女中にいいつけて置けば済むというものの、しかしもう晩秋だというのに、雨戸をあけて寝るなぞ想えば変な工合である。宿の方でも不要心だと思うにちがいない。それを押して、病気だからと・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競走が荒れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳の中を焦躁の色を帯びた殺気がふと行・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・ 一刻ごとに暗さの増して行くのがわかる晩秋の黄昏だった。 やがて、その人が駅の改札口をはいって行くその広い肩幅をひそかに見送って、再びその広場へ戻って来ると、あたりはもうすっかり暗く、するすると夜が落ちていた。「お姉さま。道子は・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・それからまた晩秋の自然薯掘り。夕方山から土に塗れて帰って来る彼らを見るがよい。背に二貫三貫の自然薯を背負っている。杖にしている木の枝には赤裸に皮を剥がれた蝮が縛りつけられている。食うのだ。彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中の山葵沢へ出掛・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ 昭和二十二年、晩秋。 第二巻 この「井伏鱒二選集」は、だいたい、発表の年代順に、その作品の配列を行い、この第二巻は、それ故、第一巻の諸作品に直ぐつづいて発表せられたものの中から、特に十三篇を選んで編纂せられた・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 三田君が、はじめて私のところへやって来たのは、昭和十五年の晩秋ではなかったろうか。夜、戸石君と二人で、三鷹の陋屋に訪ねて来たのが、最初であったような気がする。戸石君に聞き合せると更にはっきりするのであるが、戸石君も已に立派な兵隊さんに・・・ 太宰治 「散華」
出典:青空文庫