・・・「直之の首は暑中の折から、頬たれ首になっております。従って臭気も甚だしゅうございますゆえ、御検分はいかがでございましょうか?」 しかし家康は承知しなかった。「誰も死んだ上は変りはない。とにかくこれへ持って参るように。」 正純・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・去年まず検事補に叙せられたのが、今年になって夏のはじめ、新に大審院の判事に任ぜられると直ぐに暑中休暇になったが、暑さが厳しい年であったため、痩せるまでの煩いをしたために、院が開けてからも二月ばかり病気びきをして、静に療養をしたので、このごろ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ この年の暑中休みには家に帰らなかった。暮にも帰るまいと思ったけれど、年の暮だから一日でも二日でも帰れというて母から手紙がきた故、大三十日の夜帰ってきた。お増も今年きりで下ったとの話でいよいよ話相手もないから、また元日一日で二日の日に出・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒った椿岳の画短冊は劫火の中から辛うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。 が、椿岳の最も勝れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町に所蔵されてい・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・また暑中休暇の期間だけ、閑静な処にて自然に親しませることは、虚弱な児童等にとって必要なことである。林間学校、キャンプ生活、いずれも理想的なるに相違ないが、それには、費用のかゝることであり、無産者の子供は、加わることができない。要は、適当なる・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・それきり顔を見せなくなったが、応召したのか一年ばかりたって中支から突然暑中見舞の葉書が来たことがある。…… そんな不義理をしていたのだが、しかし寒そうに顫えている横堀の哀れな復員姿を見ると、腹を立てる前に感覚的な同情が先立って、中へ入れ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・が、主人は、彼等の様子の尋常で無さそうなのを看て取って、暑中休暇で室も明いてるだろうのに、空間が無いと云ってきっぱりと断った。併しもう時間は十時を過ぎていた。で彼は今夜一晩だけでもと云って頼んでいると、それを先刻から傍に坐って聴いていた彼の・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・自分も十五六年前までは暑中休暇で村に帰っていると、五里ほど汽車に乗ってお盆の墓参りに来たものだが、その後は一度も訪ねてなかった。父も不幸な没落後三十年ぶりで、生れ故郷の土に眠むるべく、はるばると送られてきたのだった。途中自動車の中から、昔の・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ その朝から三吉はおげんの側で楽しい暑中休暇を送ろうとして朝飯でも済むと復た直ぐ屋外へ飛び出して行ったが、この小さな甥の子供心に言ったことはおげんの身に徹えた。彼女は家の方に居た時分、妙に家の人達から警戒されて、刃物という刃物は鋏から剃・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 私の長兄も次兄も三兄もたいへん小説が好きで、暑中休暇に東京のそれぞれの学校から田舎の生家に帰って来る時、さまざまの新刊本を持参し、そうして夏の夜、何やら文学論みたいなものをたたかわしていた。 久保万、吉井勇、菊池寛、里見、谷崎、芥・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫