・・・無論話すことさえあれば、どこへ行って何をやっても差支ないはずですが、暑中の際そうそう身体も続きませぬから、好い加減のところで断りたいと思っております。しかしこの堺は当初からの約束で是非何か講話をすべきはずになっておりましたから私の方もそれは・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・その時の私の生活状態は特別なもので、その暑中に湯を浴ることもできなければ、櫛で髪をとかすことも自由にはできない有様であったから、大変に疲労した。胸の前で、自分の汗に濡れたハンケチをくるくるとまわしてやっとあたりの臭い空気をうごかし、蝉の声さ・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・暑いと云えば、毎年暑中たまらない思いをして来た須田町の午後の日ざかりを思い出す。 家々の屋根や日覆が、日没前の爛れたような光線を激しく反射する往来は、未練する跡もなく撒き散して行った水でドロドロになって、泥から上るムッとしたいきれが、汗・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・ 成井先生のところから暑中の御見舞を下さった。早速御返事を出して置く。まだ手紙を出さなくっちゃあならないところが沢山あるんだのにと思ったけれども気が向かないからやめた。 古い『新古文林』に出て居る本居宣長先生の「尾花が本」と楽翁コー・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・予定した汽車に乗れないどころか、いつの汽車にのれるか当もないのに、しかし列をはなれたら金輪際切符は買えないのだから暑中の歩道に荷物を足元におき、或はそれに腰かけて苦しそうに待っている老若男女の姿は、確に見る人々の心に、何となしただごとではな・・・ 宮本百合子 「列のこころ」
・・・翁は聞いて、丁度暑中休みで帰っていた花房に、なんだか分からないが、余り珍らしい話だから、往って見る気は無いかと云った。 花房は別に面白い事があろうとも思わないが、訴えの詞に多少の好奇心を動かされないでもない。とにかく自分が行くことにした・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・六日は日曜日で、石田の処へも暑中見舞の客が沢山来た。初め世帯を持つときに、渋紙のようなもので拵えた座布団を三枚買った。まだ余り使わないのに中に入れた綿が方々に寄って塊になっている。客が三人までは座布団を敷かせることが出来るが、四人落ち合うと・・・ 森鴎外 「鶏」
何か事情があって、川開きが暑中を過ぎた後に延びた年の当日であったかと思う。余程年も立っているので、記憶が稍おぼろげになってはいるが又却てそれが為めに、或る廉々がアクサンチュエエせられて、翳んだ、濁った、しかも強い色に彩られ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・或る日安国寺さんが来て、暑中に帰省して来ると云った。安国寺さんは小倉の寺を人に譲ったが、九州鉄道の豊州線の或る小さい駅に俗縁の家がある。それを見舞いに往くと云うことであった。 安国寺さんの立った跡で、私の内のものが近所の噂を聞いて来た。・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・炎熱の烈しかったこの暑中も、毎日『明暗』を書きつづけながら、製作の活動それ自身を非常に愉快に感じていた。そのため生理的にも今までになく快適を感じていたらしかった。 先生が製作によって生の煩わしさを超脱する心持ちは、私の記憶では、『草枕』・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫