・・・ 縄は盗人の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張らせれば、ほかに面倒はありません。 わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしい・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・ ……「ああ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がっくりと抜衣紋。で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪先を頂く真似して、「かように穢いものなれば、くどくどお礼など申して、お身近はかえってお目触り、御恩は忘・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・塵埃が積る時分にゃあ掘出し気のある半可通が、時代のついてるところが有り難えなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁奴軽くなったナ。「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気を揉ん・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・「冷てえ!」 俺は思わず手をひッこめた。「冷てえ?――そうか、そうか。じゃ、シャツの袖口をのばしたり。その上からにしよう。」「有難てえ。頼む!」「こんな恰好見たら、親がなんて云うかな。不孝もんだ!」 年を取って指先き・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・私は、おもむろに、かの同行の書生に向い、この山椒魚の有難さを説いて聞かせようと思ったとたんに、かの書生は突如狂人の如く笑い出しましたので、私は実に不愉快になり、説明を中止して匆々に帰宅いたしたのでございます。きょうは皆様に、まずこの山椒魚の・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・私だって、お金の有難さは存じていますが、でも、その事ばかり考えて生きているのでは、ございません。三百円だけ残して、そうして得意顔でお帰りになるあなたのお気持が、私には淋しくてなりません。私は、ちっともお金を欲しく思っていません。何を買いたい・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・日本の国の有難さが身にしみた。 井戸端へ出て顔を洗い、それから園子のおむつの洗濯にとりかかっていたら、お隣りの奥さんも出て来られた。朝の御挨拶をして、それから私が、「これからは大変ですわねえ。」 と戦争の事を言いかけたら、お隣り・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がっておいでのその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・なぞという挨拶にはじまる女人の実体を活写し得ても、なんの感激も有難さも覚えないのだから、仕方がないのである。私は、ひとりになっても、やはり、観念の女を描いてゆくだろう。五尺七寸の毛むくじゃらの男が、大汗かいて、念写する女性であるから笑い上戸・・・ 太宰治 「女人創造」
・・・そういう気兼ねのいらないのは誠に二十世紀の有難さであろうと思われる。 寺田寅彦 「五月の唯物観」
出典:青空文庫