・・・が、私はえらくなろうという野心――野心といったのは、つまりえらくなって文子と結婚したいという望み――だけは、やはり捨てなかったのです。 ところが、その年の冬、詳しくいうと十一月の十日に御即位の御大礼が挙げられて、大阪の町々は夜ごと四ツ竹・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・が彼は思いもかけず自分の前途に一道の光明を望みえたような軽い気持になって、汽車の進むにしたがって、田圃や山々にまだ雪の厚く残っているほの白い窓外を眺めていた。「光の中を歩め」の中の人々の心持や生活が、類いもなく懐しく慕わしいものに思われた。・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・そしてそのなかで人間の望み得る最も行き届いた手当をうけている人間は百人に一人もないくらいで、そのうちの九十何人かはほとんど薬らしい薬ものまずに死に急いでいるということであった。 吉田はこれまでこの統計からは単にそういうようなことを抽象し・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・きき候と同じ昔噺を貞坊が聞き候ことも遠かるまじと思われ候、これを思えば悲しいともうれしいとも申しようなき感これありこれ必ず悲喜両方と存じ候、父上は何を申すも七十歳いかに強壮にましますとも百年のご寿命は望み難く、去年までは父上父上と申し上げ候・・・ 国木田独歩 「初孫」
一 学窓への愛と恋愛 学生はひとつの志を立てて、学びの道にいそしんでいるものである。まず青雲を望み見るこころと、学窓への愛がその衷になければならぬ。近時ジャーナリストの喧声はややもすれば学園を軽んじるかに見・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まりて、ふりかえり見れば、すぐその傍の山の根に、格子しつらい鎖さし固め、猥に人の入るを許さずと記したるあ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・しかも、死ぬなら天寿をまっとうして死にたいというのが、万人の望みであろう。一応は無理からぬことである。 されど、天命の寿命をまっとうして、疾病もなく、負傷もせず、老衰の極、油つきて火の滅するごとく、自然に死に帰すということは、その実はな・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・天に昇るを得て小春がその歳暮裾曳く弘め、用度をここに仰ぎたてまつれば上げ下げならぬ大吉が二挺三味線つれてその節優遇の意を昭らかにせられたり おしゅんは伝兵衛おさんは茂兵衛小春は俊雄と相場が極まれば望みのごとく浮名は広まり逢うだけが命の四・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・長兄の望みは、そんなところに無かったのです。長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫