・・・この点近代人が、木版、手摺の昔の出版界時代を幼穉に感ずるのも無理がありません。 しかし、こうして月々出版された書物はどこへ行くのか。何人も時にこれを疑わぬものはないでありましょう。 思うに、半分は、屑とされて消滅し、半分は、自然消滅・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・ 辛うじて木版と半紙を算段して、五十枚か百枚ずつ竹の皮でこすっては、チラシを手刷りした。が、人夫を雇う金もない。已むなく自ら出向いて、御霊神社あたりの繁華な場所に立って一枚一枚通行人に配った。そして、いちはやく馳せ戻り、店に坐って、客の・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 私の幼時に愛した木版の東海道五十三次道中双六では、ここが振りだしになっていて、幾人ものやっこのそれぞれ長い槍を持ってこの橋のうえを歩いている画が、のどかにかかれてあった。もとはこんなぐあいに繁華であったのであろうが、いまは、たいへんさ・・・ 太宰治 「葉」
・・・と赤字を粗末な木版で刷った紙袋入りの刻煙草であったが、勿論国分で刻んだのではなくて近所の煙草屋できざんだものである。天井から竹竿で突張った鉋のようなものでごしりごしりと刻んでいるのが往来から見えていた。考えてみると実に原始的なもので、おそら・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・またそのころのやさ男が粉をふりかけた鬘のしっぽをリボンで結んで、細身のステッキを小脇にかかえ込んで胸をそらして澄ましている木版絵などもある。とにかくあのころ以後はずっと行なわれて今日に至ったものであろう。いずれにしても人間がみんな働くのに忙・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・という和装木版刷りの書物があった。全体が七五調の歌謡体になっているので暗記しやすかった。そのさし絵の木版画に現われた西洋風景はおそらく自分の幼い頭にエキゾチズムの最初の種子を植え付けたものであったらしい。テヘラン、イスパハンといったようない・・・ 寺田寅彦 「読書の今昔」
・・・横に長い黄表紙で木版刷りの古い本であった。「甲乙二人の旅人あり、甲は一時間一里を歩み乙は一里半を歩む……」といったような題を読んでその意味を講義して聞かせて、これをやってごらんといわれる。先生は縁側へ出てあくびをしたり勝手のほう・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・は、鼻紙を八つ切りにしたのに粗末な木版で赤く印刷したものであったが、その木版の絵がやはり蝙蝠傘をさして尻端折った薬売りの「ホンケ」の姿を写したものであった。いっしょに印刷してあった文字などは思い出せない。子供らにとってはこのビラ紙も「ホンケ・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・ 始めて六尺横町の貸本屋から昔のままなる木版刷の『八犬伝』を借りて読んだ当時、子供心の私には何ともいえない神秘の趣を示した氷川の流れと大塚の森も取払われるに間もあるまい。私が最後に茗荷谷のほとりなる曲亭馬琴の墓を尋ねてから、もう十四、五・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・そこでケーテの未発表の木版画や「五十七歳の自画像」旧作「机の上にねむる」などが陳列された。ケーテ・コルヴィッツの画業が、ナチスのものでありえなかったということは、とりもなおさず、彼女の生涯と芸術が戦争に反対し、人民の窮乏に反対する世界のすべ・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
出典:青空文庫