・・・ それは実に明るい、快活な、生き生きした海なんだ。未だかつて疲労にも憂愁にも汚されたことのない純粋に明色の海なんだ。遊覧客や病人の眼に触れ過ぎて甘ったるいポートワインのようになってしまった海ではない。酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒の・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・天上はかく静かなれど地上の騒ぎは未だやまず、五味坂なる派出所の前は人山を築けり。余は家のこと母のこと心にかかれば、二郎とは明朝を期して別れぬ。 家には事なかりき。しばし母上と二郎が幸なき事ども語り合いしが母上、恋ほどはかなきものはあらじ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・によれば、「四十余ニハ未だ真実ヲ顕ハサズ」とある。この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。 仏陀の正法は法華経あるのみ。その他の既成の諸宗は不了・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 幾間かを通って遂に物音一ツさせず奥深く進んだ。未だ灯火を見ないが、やがてフーンと好い香がした。沈では無いが、外国の稀品と聞かるる甘いものであった。 女はここへ坐れと云うように暗示した。そして一寸会釈したように感じられたが、もの静か・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・泊い行く心細さを恐るるのもある、現世の歓楽・功名・権勢、扨は財産を打棄てねばならぬ残り惜しさの妄執に由るのもある、其計画し若くば着手せし事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある、子孫の計未だ成らず、美田未だ買い得ないで、其行末・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・金田「予て噂には聞いていたが未だしみ/″\会わん、下谷辺へ来るような事があったら、身が屋敷へも寄っておくれ」七「へえ……彼方へは往きません、面倒だから何処も往きません」殿「何かぐず/″\口の内で言っているな、浪々酌をしてやれ、も・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・有体に言えば、原は金沢の方を辞めて了ったけれども、都会へ出て来て未だこれという目的が無い。この度の出京はそれとなく職業を捜す為でもある。不安の念は絶えず原の胸にあった。「では失礼します。君も御多忙でしょうから」原は帽子を執って起立った。・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。 次兄は、この創刊・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ あるいはもう疾にこういう研究に着手しておられる方があるかも知れないが、自分は未だそういう方面に関する面白い発見等の話を聞いたことがない。それでこの甚だ杜撰な比較が万一この方面の専門家の真面目な研究のヒントにでもならばと思って、思い付い・・・ 寺田寅彦 「短歌の詩形」
・・・「どうして未だなかなか。」「七十幾歳ですって?」「七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あ・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫