・・・余は若い時からいろいろ愚な事を想像する癖があるが、未知の人の容貌態度などはあまり脳中に描かない。ことに中年からは、この方面にかけると全く散文的になってしまっている。だから長谷川君についても別段に鮮明な予想は持っていなかったのであるけれども、・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・ その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・いちばん困るのは、気心の解らない未知の人の訪問である。それも用件で来るのは好いのだけれども、地方の文学青年なんかで、ぼんやり訪ねて来られるのは最も困る。僕は一体話題のすくない人間であり、自己の狭い主観的興味に属すること以外、一切、話すことの・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 未知の神、未知の幸福――これは象徴派のよく口にする所だが、あすこいらは私と同じ傾向に来て居るんじゃないかと思うね。併し彼等はまるで今迄とは性質の変った思いもかけぬ神様や幸福が先きにあるように考えてるらしいが、私はそうは思わん。我々が斯・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であって、けっして畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。三 これらはけっして偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこのと・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・それかといって、多くの女性が、自分の娘の幼い通学姿を眺めて、我知らず追懐に胸をそそられるだろうような場合は、未だ自分にとっては未知の世界に属する。若しかすると、折々記憶の裡に浮み上るその頃の自分が、我ながら無条件に可愛ゆいとは云いかねるよう・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・然し今まで平穏に自分の囲を取捲いていた生活の調子は崩れてしまうだろう、自分はまるで未知未見な生活に身を投じて、辛い辛い思いで自分を支えて行かなければならない――ここで、人として独立の自信を持ち得ない、持つ丈の実力を欠いている彼女は、何処かに・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・ 文学的趣味を豊かに蔵され、時折作品なども発表される夫人は、全然未知の方ながら、自分の心持に於て同じ方向を感じずにはおられません。 お年も未だ若く御良人に対する深い敬慕や、生活に対しての意志が、とにかく、文字を透して知られているだけ・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・それはわれわれの主観をして既知なる経験的認識から未知なる認識活動を誘導さすことによって触発された感覚である。此のより深き認識への追従感覚を所有した作品をまた自分は尊敬する。例えば最も平凡な例をもってすれば、ストリンドベルヒの「インフェルノ」・・・ 横光利一 「新感覚論」
・・・諸君の中には確かにある未知の神への憧憬が動いているのである。予の神はこの、諸君が知らずして礼拝するところの神である。諸君はあの祭壇に、人間の手で作った神を据えなかった。それはまことに正しい。万物の造り主である活ける神は、人の工と巧とをもって・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫