・・・前に云うごとく、真は四理想の一であって、その一たる真が勢を得て、他の三理想が比較的下火になるのも、時勢の推移上銀杏返しがすたれて束髪が流行すると同じように、やむをえぬ次第と考えられます。しかしこれについて一言御参考のために申し上げておきたい・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・小さい引つめ束髪に結った彼女の髷は、もう幾日櫛をとおさないか。謂わばまあ埃と毛髪のこね物なのだが、そこへ、二本妻楊子がさしてある。 蕨を出て程なく婆さんは、私に訊いた。「大宮はまだでしょうか」「この次浦和でしょう? 次が与野、大・・・ 宮本百合子 「一隅」
・・・ その頃大変流行った、前髪を切下げた束髪にして、真赤な珊瑚の大きな簪を差した友子さんは、紅をつけた唇を曲げながら、「貴女はどうお思いになって?」と、政子さんの返事を求めました。 子供の時から、姉妹のように暮している政子さんと・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・気の利いた外国風の束髪で胸高に帯をしめ、彼女のカウンタアの前ではさぞ気位の高い売り子でありそうな娘が、急いで来たので息を弾ませ、子供らしく我知らず口を少しあけて雑踏する電車の窓を見上げるのなどを認めると、私は好意を感じ楽しかった。夕刊売子と・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・ 千世子はだまって小ぢんまりした束髪に結って年にあわせては、くすんだ衿をかけて居る女のいたいたしく啜り泣くのを見て居た。「泣くのなんかお止めよ、 ね。 悪いこっちゃあないんだもの、 私だってよろこんで居るんだよ。」 ・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・まわりを房々だした束髪で、真紅な表のフェルト草履を踏んで行くのだが――それだけで充分さらりと浴衣がけの人中では目立つのに、彼女は、まるで妙な歩きつきをしていた。そんなけばけばしいなりをしながら、片手で左わきの膝の上で着物を抓み上げ持ち上った・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・ 奇麗に結った日本髪の堅くふくれた髷が白っとぼけた様な光線につめたく光って束髪に差す様な櫛が髷の上を越して見えて居た。 だまって先(ぐ後から軽く肩を抱えた。 急に振りっ返った京子は顔いっぱいに喜んで、「まあ来て下さったの・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・ねえ、おばあさん、おけいちゃん何処にいるの、しつこく訊いてもいどころが分らず、何ヵ月か経ったら、ふいと、紅い玉の簪をひきつめて丸めた黒い束髪にさしたおけいちゃんが、遠慮がちにうちへ訊ねて来た。マア、おけいちゃん! 手をつかまえて、玄関のわき・・・ 宮本百合子 「なつかしい仲間」
・・・雨の日は広い宿屋じゅうがひっそりして、廊下に出ると、木端葺きの湯殿の屋根から白く湯気の立ち騰るのや崖下の渡廊下を溜塗りの重ね箱をかついだ束髪の菓子売りが、彼方の棟へ渡って行くのなどが見える。私の部屋は四階の隅だ。前の廊下を通る者はなく、こう・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・と、ものを書いている主人に、馴れない、すがりつくような様子で云っている。束髪の鬢を乱して黒っぽいコートを着た四十がらみの大きい女がこのひとの伴れらしいが、そのひともショールをはずして膝の上へまるめこみ、沈んだ風で体をねじり、煉炭火鉢に両・・・ 宮本百合子 「日記」
出典:青空文庫