・・・紋を染めた古帷子に何か黒い帯をしめた、武家の女房らしい女である。これはまだ三十代であろう。が、ちょいと見たところは年よりはずっとふけて見える。第一妙に顔色が悪い。目のまわりも黒い暈をとっている。しかし大体の目鼻だちは美しいと言っても差支えな・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島の萩寺へ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋が藤井の父子と一しょに詣り合せたので、つれ立って境内を歩いている中に、いつか互に見染めもし見染められもしたと云う次第なので・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
ドゥニパー湾の水は、照り続く八月の熱で煮え立って、総ての濁った複色の彩は影を潜め、モネーの画に見る様な、強烈な単色ばかりが、海と空と船と人とを、めまぐるしい迄にあざやかに染めて、其の総てを真夏の光が、押し包む様に射して居る・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・ 四 金石街道の松並木、ちょうどこの人待石から、城下の空を振向くと、陽春三四月の頃は、天の一方をぽっと染めて、銀河の横たうごとき、一条の雲ならぬ紅の霞が懸る。…… 遠山の桜に髣髴たる色であるから、花の盛には相・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・と、かなで染めた、それがほのかに読まれる――紙が樹の隈を分けた月の影なら、字もただ花と莟を持った、桃の一枝であろうも知れないのである。 そこへ……小路の奥の、森の覆った中から、葉をざわざわと鳴らすばかり、脊の高い、色の真白な、大柄な婦が・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・手にとれば手を染めそうな色である。 湖も山もしっとりとしずかに日が暮れて、うす青い夕炊きの煙が横雲のようにただようている。舟津の磯の黒い大石の下へ予の舟は帰りついた。老爺も紅葉の枝を持って予とともにあがってくる。意中の美人はねんごろに予・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・おらアもう長着で羽織など引っ掛けてぶらぶらするのは大きらいだ。染めぬいた紺の絣に友禅の帯などを惜しげもなくしめてきりっと締まった、あの姿で手のさえるような仕事ぶり、ほんとに見ていても気が晴々する。なんでも人は仕事が大事なのだから、若いものは・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そして、真っ赤に、入り日の名残の地平線を染めていますのが、しだいしだいに、波に洗われるように、うすれていったのでありました。 おじいさんは、ほとんど、毎日のようにここにきて、同じ石の上に腰を下ろしました。そして、沖の暮れ方の景色に見とれ・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・もうとっくに死んでいたおきみ婆さんと同じようにお歯黒に染めていたその婆さんは、もと髪結いをしていて、その家の軒には「おめかし処」と父の筆で書いた行灯が掛っていたのだが、二三年前から婆さんの右の手が不随になってしまったので、髪結いもよしてしま・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・彼はかすかな旅情らしいものが、濃くあたりに漂っているあれちのぎくの匂いに混じって、自分の心を染めているのを感じた。 ある窓では運動シャツを着た男がミシンを踏んでいた。屋根の上の闇のなかにたくさんの洗濯物らしいものが仄白く浮かんでいるのを・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫