・・・ 両国橋には不朽なる浮世絵の背景がある。柳橋は動しがたい伝説の権威を背負っている。それに対して自分は艶かしい意味においてしん橋の名を思出す時には、いつも明治の初年返咲きした第二の江戸を追想せねばならぬ。無論、実際よりもなお麗しくなお立派・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 観潮楼の先生もかつて『染めちがえ』と題する短篇小説に、西鶴のような文章で浴衣と柳橋の女の恋を書かれた事があった。それをば正直正太夫という当時の批評家が得意の Calembour を用いて「先生の染めちがえは染ちがえなり。」と罵った事を・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの事で、わたくしもこの辺の水練場で始めて泳ぎを教えられたのであった。世・・・ 永井荷風 「向島」
・・・いつもの日和下駄覆きしかど傘持たねば歩みて柳橋渡行かんすべもなきまま電車の中に腰をかけての雨宿り。浅草橋も後になし須田町に来掛る程に雷光凄じく街上に閃きて雷鳴止まず雨には風も加りて乾坤いよいよ暗澹たりしが九段を上り半蔵門に至るに及んで空初め・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・明日の晩実は柳橋で御馳走になる約束があるのだが一日だけ日延してはくれまいかと願って見たとて鬼の事だからまさか承知しまいナ。もっとも地獄の沙汰も金次第というから犢鼻褌のカクシへおひねりを一つ投げこめば鬼の角も折れない事はあるまいが生憎今は十銭・・・ 正岡子規 「墓」
・・・どこで飲んだ、どこで飲んだもねえものだ、おれが飲む処は新橋か柳橋、二重橋から和田倉橋、オットそいつはからくりだよ、何、今夜はね柳橋でね小紫をあいかたで飲みましたよ。オヤ小紫ですってそれなら柳橋じゃない吉原でしょう。ナーニ柳橋にも小紫というお・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・芸者らしくない芸者を見たりみっともなく気取った女を見たりするとつくづく素足で何とも云われないほど粋な様子をして居た江戸時代の柳橋の芸者がなつかしくなる。仲店を幾度も幾度も行ったり来たりして三四枚スケッチと玩具の達磨と鳩ぽっぽとをふり分に袂に・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・ 時刻と集合の場所とを聞いて置いた僕は、丁度外に用事もないので、まあ、どんな事をするか行って見ようと云う位の好奇心を出して、約束の三時半頃に、柳橋の船宿へ行って見た。天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、凌ぎ好かった。船・・・ 森鴎外 「百物語」
同郷人の懇親会があると云うので、久し振りに柳橋の亀清に往った。 暑い日の夕方である。門から玄関までの間に敷き詰めた御影石の上には、一面の打水がしてあって、門の内外には人力車がもうきっしり置き列べてある。車夫は白い肌衣一・・・ 森鴎外 「余興」
・・・今の東京、昔の武蔵野。今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てられぬほどの広さ。今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町の漁師町でわずかに活計を立てていた。今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫