・・・まず、忍び逢いの小座敷には、刎返した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るよ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・一は市営乗合自動車、一は京成乗合自動車と、各その車の横腹に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・影のように黒く立つ石川島の前側に、いつも幾艘となく碇泊している帆前船の横腹は、赤々と日の光に彩られた。橋の下から湧き昇る石炭の煙が、時々は先の見えぬほど、橋の上に立ち迷う。これだけは以前に変らぬ眺めであったが、自分の眼は忽ち佃島の彼方から深・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・コイツは可笑しい、ハハハハハ痛い痛い痛い横腹の痛みをしゃくッて馬鹿に痛いよ。しかし思案の臍という臍が五十四郡に一ぱい並んで居ると思うと馬鹿に可笑しい。しかもその臍の上に一つずつ土瓶が掛けてあってそれが皆茶をわかして居ると思うといよいよ可笑し・・・ 正岡子規 「煩悶」
・・・背中から左の横腹や腰にかけて、あそこやここで更る更る痛んで来る事は地獄で鬼の責めを受けるように、二六時中少しの間断もない。さなくても骨ばかりの痩せた身体に終始痛みが加わるので、僅かの身動きさえならず、苦しいの苦しくないのと、そんなことをいう・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」大学士はこの語を聞いてすっかり愕ろいてしまう。「どうも実に記憶のいいやつらだ。ええ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまっているのかい。まさか忘れはしない・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・一太は空っぽの竹籠を横腹へ押しつけたり、背中に廻してかついだりしつつ、往来を歩いた。どこへ廻しても空の納豆籠はぴょんぴょん弾んで一太の小さい体を突いたりくすぐったりした。一太がゆっくり歩けば籠も静かにした。一太が急ぐと籠もいそぐ。一太が駈け・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ マリーナは肱で、ダーリヤの横腹を突いた。「あの方は一遍、活動写真に映されてから、御自分の美しさに急に気がつきなすったんですよ」 一つの角砂糖を噛んでステパン・ステパノヴィッチは三杯の茶を干した。「ああ結構でした」 彼は・・・ 宮本百合子 「街」
・・・茶碗を洗っていた婆あさんが来て鳥の横腹をつつく。鳥は声を立てる。石田は婆あさんの方を見て云った。「どうするのだ。」「旦那さんに玉子を見せて上ぎょうと思いまして。」「廃せ。見んでも好い。」 石田は思い出したように、婆あさんにこ・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・暗中匕首を探ぐってぐっと横腹を突くように、栖方は腰のズボンの時計を素早く計る手つきを示して梶に云った。「しかし、それなら発表するでしょう。」「そりゃ、しませんよ。すぐ敵に分ってしまう。」「それにしても――」 二人はまた黙って・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫