・・・遙か下の方からは、うざうざするほど繁り合った濶葉樹林に風の這入る音の外に、シリベシ河のかすかな水の音だけが聞こえていた。「聞いて見ずに」 妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。「汝聞いて見べし」 いきなりそこにしゃごんで・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・が、狸穴、我善坊の辺だけに、引潮のあとの海松に似て、樹林は土地の隅々に残っている。餅屋が構図を飲込んで、スケッチブックを懐に納めたから、ざっと用済みの処、そちこち日暮だ。……大和田は程遠し、ちと驕りになる……見得を云うまい、これがいい、これ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 二 公園の入口に、樹林を背戸に、蓮池を庭に、柳、藤、桜、山吹など、飛々に名に呼ばれた茶店がある。 紫玉が、いま腰を掛けたのは柳の茶屋というのであった。が、紅い襷で、色白な娘が運んだ、煎茶と煙草盆を袖に控えて・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・叔父の家は丘のふもとにあり、近郊には樹林多く、川あり泉あり池あり、そしてほど遠からぬ所に瀬戸内内海の入江がある。山にも野にも林にも谷にも海にも川にも、僕は不自由をしなかったのである。 ところが十二の時と記憶する、徳二郎という下男がある日・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・緑草直ちに門戸に接するを見、樹林の間よりは青煙閑かに巻きて空にのぼるを見る、樵夫の住む所、はた隠者の独座して炉に対するところか。 これらの美なる風光はわれにとりて、過去五年の間、かの盲者における景色のごときものにてはあらざりき。一室に孤・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮やかな日景は遠村近郊小丘樹林を隈なく照らしている、二人の背はこの夕陽をあびてその傾いた麦藁帽子とその白い湯衣地とを真ともに照りつけられている。 二人とも余り多く話さ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・男体山麓の噴火口は明媚幽邃の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地という宿駅もこ・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
峰の茶屋から第一の鳥居をくぐってしばらくこんもりした落葉樹林のトンネルを登って行くと、やがて急に樹木がなくなって、天地が明るくなる。そうして右をふり仰ぐと突兀たる小浅間の熔岩塊が今にも頭上にくずれ落ちそうな絶壁をなしてそび・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・もしもその時間が決定され、そしてその人が電車で来たものと仮定すれば、その時間と電車速度の相乗積に等しい半径で地図上に円を描き、その上にある樹林を物色することが出来る。しかし実際はそう簡単には行かない。 しかしこの玉虫の一例は、われわれが・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・それでもし数千坪の庭園を所有する事ができるならば、思い切って広い芝生の一方には必ずさまざまな樹林を造るだろうと思う。そして生気に乏しいいわゆる「庭木」と称する種類のものより、むしろ自然な山野の雑木林を選みたい。 しかしそのような過剰の許・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
出典:青空文庫