・・・ 日本画部から受けた灰色の合成的印象をもって洋画部へはいって行くと、冬枯れの野から温室の熱帯樹林へはいって行くような気持がするのは私ばかりではあるまい。製作のミリウ〔milieu 環境〕がちがうとは云え、培養された風土民俗が違うとは・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・南国の炎天に蒸された樹林は「小さなうごめく生命」の無尽蔵であった。人のはいらないような茂みの中には美しいフェアリーや滑稽なゴブリンの一大王国があったのである。後年「夏夜の夢」を観たり「フォーヌの午後」を聞いたりするたびに自分は必ずこの南国の・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・たとえば信州へんでもある東西に走る渓流の南岸の斜面には北海道へんで見られるような闊葉樹林がこんもり茂っているのに、対岸の日表の斜面には南国らしい針葉樹交じりの粗林が見られることもある。 単に微気候学的差別のみならず、また地質の多様な変化・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・そうして年々数千万円の樹林が炎となり灰となっていたずらにうさぎやたぬきを驚かしているのである。そうして国民の選良たる代議士でだれ一人として山火事に関する問題を口にする人はないようである。 数年前山火事に関する若干の調査をしたいと思い立っ・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・自分はこのような植物の茂っている熱帯の樹林を想像しているうちにシンガポールに遊んだ日を思い出した。椰子の木の森の中を縫う紅殻色の大道に馬車を走らせた時の名状のできない心持ちだけは今でもありあり胸に浮かんで来るが、細かい記憶は夢のように薄れて・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲の虞なからしむる放水路の関門であることは、その傍まで行って見なくとも、その形がその事を知らせている。・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・名所ではないが、自然が起伏に富み、畑と樹林が程よく配合され眺めに変化があるのだ。ぶらぶら歩いていると、漠然、自然と人間生活の緩漫な調和、譲り合い持ち合いという気分を感じ長閑になる。つまり、畑や電柱、アンテナなどに文明の波が柔く脈打っているた・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
・・・ 飴緑色の半透明な茎を、根を埋めた水苔のもくもくした際から見あげると、宛然それ自身が南洋の繁茂した大樹林のように感じられた。 想像の豊かな若者なら、きっとその蔭に照る強い日の色、風の光、色彩の濃い熱帯の鳥の翼ばたきをまざまざと想うこ・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・自ら わが心の流れよるかの遠い 遠い 樹林の蔭に青春の落ちた 星はあるのだ。 パンよ!パンよ! パンよ!快活な古代のパン!どうぞ お前の愉快な 牧笛でわが 胸を浄めて呉れこの寂しい微笑を忘れ・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・ 空には雲もなく、四辺は森としている。何の物音もしない。 樹林の間はしめっぽくひいやりした。日向に出ると穏やかに暖かで、白い砂利路の左に色づいたメイプルの葉が、ぱっとした褪紅色に燃えていた。空気は極軽く清らかで威厳に満ちているので、・・・ 宮本百合子 「翔び去る印象」
出典:青空文庫