・・・自分の専門にしていることにかけては、不具的に非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりできつつあるという意味です。 私は職業上己のためとか人のためとか云う言葉から出立してその先へ進むはずの・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・日本の詩人等は、昔から全く哲学する精神を欠乏して居る。そして此処に詩人と言ふのは、小説家等の文学者一般をも包括して言ふのである。 ニイチェは詩人である。何よりも先づ詩人である。しかしながら彼のポエジイには、多くの深遠な思想や哲学が含まれ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・が、何だか自分に欠乏してる生命の泉というものが、彼女には沸々と湧いてる様な感じがする。そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の冷たい、死というものに掴まれそうになってる人間が、日向の明るい、生気溌溂たる陽気な所を求めて、得られんで煩悶している・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・工場が燃料に欠乏を感じぬ日は一日もない。工場用の水はきたない。そのために製造したバタの品質が低下する。上ナザロフ村にもう一つバタ工場がある。そこの建物はひどい有様だ。扉はこわれている。寒くて働けぬ。この間支配人はクラスノヤルスク・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・非常な不健康や欠乏は、一時も早く改善され、互に、終局の目標に進めることが大切である。 広くもない地球の上で、幾千万と云う人間が、飢え渇え、獣物にまで成り下っている有様は、万の王宮を以て償えないディスグレースではないだろうか。〔一九二二年・・・ 宮本百合子 「アワァビット」
・・・八面六臂的欠乏で困ります。原稿紙というものが、この節ではなかなか只ごとならないものになって参りました。何しろちり紙から心配という次第ですから。こんなさっぱりと四角い紙に気持よく朱の線の通っている原稿紙がやがて、昔話になるかもしれませんね。・・・ 宮本百合子 「裏毛皮は無し」
・・・君は衣食の闕乏を憂えない。君は性慾を制している。君は尋常の徼幸者とは違う。君はとにかくえらいと、私は思った。そこで初め君との間に保留して置いた距離が次第に短縮するのを、私は妨げようとはしなかった。私の鑑識は或は錯っていたかも知れない。しかし・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・デクレスはナポレオンの征戦に次ぐ征戦のため、フランス国の財政の欠乏の人口の減少と、人民の怨嗟と、戦いに対する国民の飽満とを指摘してナポレオンに詰め寄った。だが、ナポレオンはヨーロッパの平和克復の使命を楯にとって応じなかった。デクレスは最後に・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・対象になったのは道徳的の無知無反省と教養の欠乏とのために、自分のしている恐ろしい悪事に気づかない人でした。彼は自分の手である人間を腐敗させておきながら、自分の罪の結果をその人のせいにして、ただその人のみを責めました。彼は物的価値以外を知らな・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・人および物に対する同情と理解との欠乏は、自分の心の全面に嘲笑と憤怒とを漲らしめた。人に頼ることを恥じるとともに、人に活らき掛けることをも好まなかった。孤立が誇りであった。友情は愛ではなくてただ退屈しのぎの交際であった。関係はただ自分の興味を・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫