・・・しかし、そのような時にも私の口は甘い言葉を囁かず、熱い口づけもせず、ただ欠伸をするためにのみ存在しているのであった。私は彼女に何の魅力も感じないどころか、万一まかり間違ってこの女と情事めいた関係に陥ったら、今は初々しくはにかんでいるこの女も・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 女中は急に欠伸をして、私眠くなって来たわ、ああいい気持、体が宙に浮きそう、少しここで横にならせて下さいね。蒲団の裾を枕にすると、もう前後不覚だった。二時間ばかり経って、うっとりと眼をあけた女中は、眠っていた間何をされたかさすがに悟った・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・と女は欠伸まじりに言い、束髪の上へ載せる丸く編んだ毛を掌に載せ、「帰らしてもらいまっさ」と言って出て行った。喬はそのまままた寝入った。 四 喬は丸太町の橋の袂から加茂磧へ下りて行った。磧に面した家々が、そこに午後の日・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・「其先を僕が言おうか、こうでしょう、最後にその少女が欠伸一つして、それで神聖なる恋が最後になった、そうでしょう?」と近藤も何故か真面目で言った。「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴飯して了った。「イヤ少なくとも僕の恋はそうで・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ そのうち磯が眠そうに大欠伸をしたので、お源は垢染た煎餅布団を一枚敷いて一枚被けて二人一緒に一個身体のようになって首を縮めて寝て了った。壁の隙間や床下から寒い夜風が吹きこむので二人は手足も縮められるだけ縮めているが、それでも磯の背部は半・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・まかけちがえば互いの名を右や左や灰へ曲書き一里を千里と帰ったあくる夜千里を一里とまた出て来て顔合わせればそれで気が済む雛さま事罪のない遊びと歌川の内儀からが評判したりしがある夜会話の欠乏から容赦のない欠伸防ぎにお前と一番の仲よしはと俊雄が出・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 弛緩の極限を表象するような大きな欠伸をしたときに車が急に止まって前面の空中の黄色いシグナルがパッと赤色に変った。これも赤のあとには青が出、青のあとにはまた赤が出るのである。 これを書き終った日の夕刊第一頁に「紛糾せる予算問題。・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ欠伸に向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと煙草の煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰か・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業の太鼓御賽銭の音に汚すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡隣に坐った禿頭の行商と欠伸の掛け合いで帰って来たら大通りの時計・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・そしてそんな聴衆も、高島が演壇にでてきて五分もたつと、ぶえんりょに欠伸などしながら帰ってしまった。 じっさい、この「東京前衛社派遣」の弁士は貧弱だった。小さいのでテーブルからやっと首だけでている。おまけにおそろしく早口で、抑揚も区切りも・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫