・・・突然華やいだ放胆な歌声が耳に入った。クララは首をあげて好奇の眼を見張った。両肱は自分の部屋の窓枠に、両膝は使いなれた樫の長椅子の上に乗っていた。彼女の髪は童女の習慣どおり、侍童のように、肩あたりまでの長さに切下にしてあった。窓からは、朧夜の・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・かしらをあげると、井筒屋は大景気で、三味の音がすると同時に、吉弥のうわ気な歌声がはッきりと聴えて来た。僕は青木の顔と先刻車から出た時の親夫婦の姿とを思い浮べた。 一一 その夜はまんじりとも眠れなかった。三味の音が浪の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いきなり男の歌声がした。他愛もない流行歌だった。下手糞なので、あきれていると、女の歌声もまじり出した。私はますますあきれた。そこへ夕飯がはこばれて来た。 電燈をつけて、給仕なしの夕飯をぽつねんと食べていると、ふと昨夜の蜘蛛が眼にはいった・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・別な方からは、大胆な歌声が起る。 俺は起き抜けに足踏みをし、壁をたゝいた。顔はホテり、眼には涙が浮かんできた。そして知らないうちに肩を振り、眉をあげていた。「ごはんの用――意ッ!」 俺はそれを待っていた。丁度その時は看守も雑役も・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ゃ 売られて行くわいな と小声で呟き、起き上って、また転倒し、世界が自分を中心に目にもとまらぬ速さで回転し、 わたしゃ 売られて行くわいな その蚊の鳴くが如き、あわれにかぼそいわが歌声だけが、はるか雲煙のかなたから聞えて・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・とらわれのわれをよぶ 気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝を二三度ばさばさゆすぶってみた。いのちともしきわれをよぶ 足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・家へ帰ると子供の無心の歌声が聞える。ああ、よかった、眼があいたかと部屋に飛び込んでみると、子供は薄暗い部屋のまんなかにしょんぼり立っていて、うつむいて歌を歌っている。 とても見て居られなかった。私はそのまま、また外へ出る。何もかも私ひと・・・ 太宰治 「薄明」
・・・勝治の酔いどれた歌声が聞えた。 節子と有原は、ならんで水面を見つめていた。「また兄さんに、だまされたような気が致します。七度の七十倍、というと、――」「四百九十回です。」だしぬけに有原が、言い継いだ。「まず、五百回です。おわびを・・・ 太宰治 「花火」
・・・歌声すこしずつ近くなる。風吹く。枯葉舞う。 寒くなりましたね。(寝ている野中のほうを顎どうしますか? ずいぶん今夜は飲んだからなあ。 悪いお酒じゃないんですか? 頭が痛い痛いと言っていましたけど。 だいじ・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・淋しさが歌声の底にこもっているので、森の鳥や樹々もそれを聞いて泣き、お月さまも、うるみました。月に一度ずつ、魔法使いの婆さんが見廻りに来ました。そうして食べ物や着物を置いて行きました。婆さんは、ラプンツェルを、やっぱり可愛くて、塔の中で飢え・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
出典:青空文庫