・・・ それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。――まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみた。そこには紙幣が入っていた。五円札と、五十銭札と、一円札とが合せて十円ぐらい入っている。母が、薪出しをしてためた金を内所で入・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・が、パルチザンの正体と居所を突きとめることに苦しんでいる司令部員は、密偵の予想通り、この針小棒大な報告を喜んだ。彼等は、パルチザンには、手が三本ついているように、はっきりほかの人間と見分けがつくことを望んでいたのだ。 大隊長は、そのパル・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・山間僻地のここらにしてもちと酷過ぎる鍵裂だらけの古布子の、しかもお坊さんご成人と云いたいように裾短で裄短で汚れ腐ったのを素肌に着て、何だか正体の知れぬ丸木の、杖には長く天秤棒には短いのへ、五合樽の空虚と見えるのを、樹の皮を縄代りにして縛しつ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ので、二十里三十里をわざわざその滝へかかりに行くものもあり、また滝へ直接にかかれぬものは、寺の傍の民家に頼んでその水を汲んで湯を立ててもらって浴する者もあるが、不思議に長病が治ったり、特に医者に分らぬ正体の不明な病気などは治るということであ・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・魚が来てカカリへ啣え込んだのか、大芥が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽まで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・だから頼りになりそうな山崎のお母さんと話し込むと、正体がないほど弱くなってしまうの。 窪田が二十日程して釈放された。すると、直ぐ家へやって来てこんなに大衆的にやられている時に、遺族のものたちをバラ/\にして置いては悪いと云うので、即・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るという事を忘れているのは、間違いであります。念々と動く心の像は、すべて「事実」として存在はしても、けれども、それを「真実」として指摘するのは、間違いなのであります。真実は、常・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・私は子供のような好奇心でもって、その小鳥の正体を一目見たいと思いました。立ちどまって首をかしげ、樹々の梢をすかして見ました。ああ、私はつまらないことを言っています。ごめん下さい。旦那さま、お仕度は出来ましたか。ああ楽しい。いい気持。今夜は私・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末永くきっとうまくいくだろう。かならず、よい家を創始するにちがいない。 私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑の初・・・ 太宰治 「花燭」
・・・それで課長殿が窓際へ行って信号の出処を見届けようとしても、光束が眼を外れると鏡は見えなくなり、眼に当れば眩惑されるので、もしも相手が身体を物蔭に隠して頭と手先だけ出してでもいればなかなか容易に正体を見届けることは困難であろうと想像される。そ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫