・・・とあり、消印は「武蔵東京下谷 卅三年七月二十四日イ便」となっている。これは、夏目先生が英国へ留学を命ぜられたために熊本を引上げて上京し、奥さんのおさとの中根氏の寓居にひと先ず落着かれたときのことであるらしい。先生が上京した事をわざわざ知らし・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・漸次之ニ序グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵屋、曰ク新丸屋、曰ク吉田屋等極メテ美ナリ。自余或ハ小店ト称シ、或ハ五軒ト号ケ、或ハ局ト呼ブ者ノ若キハ曾テ算フルニ遑アラズ。且又茶屋・・・ 永井荷風 「上野」
・・・中西屋の店先にはその頃武蔵屋から発行した近松の浄瑠璃、西鶴の好色本が並べられてあったが、これも表紙を見ただけで買いはしなかった。わたくしが十六、七の時の読書の趣味は極めて低いものであった。 四カ月ほど小田原の病院にいる間読んだものは、ま・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・河内路や東風吹き送る巫女が袖雉鳴くや草の武蔵の八平氏三河なる八橋も近き田植かな楊州の津も見えそめて雲の峰夏山や通ひなれたる若狭人狐火やいづこ河内の麦畠しのゝめや露を近江の麻畠初汐や朝日の中に伊豆相模大・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・そして、秋の末頃の朝、弟と二人で、武蔵屋の横丁から斜に東片町の大通りを横切って、突当りに学校が見える横通りに出て見よう。 何といっても、朝は門が開かないうちに行くのが嬉しかった。十分か十五分、級の違う他の子供と一緒に傍のトタン塀によりか・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・政治と文化とを一貫して、世相を押しきったこのような潮流は、一九四九年度の毎日文化賞の準備調査、読売新聞社の良書ベスト・テンの調査などで、諸々批判のおこっている永井ものがトップをしめ、「宮本武蔵」や「親鸞」「風とともに去りぬ」「細雪」「流れる・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・「宮本武蔵」というような題材ばかりを選ぶだろうか。それは封建時代の昔から、「百姓、町人」の間にききつたえられ、語りつたえられているテーマだからである。「太閤記」は古く日本につたわっている。芝居もある。猿面冠者の立身物語は、そのような立身をす・・・ 宮本百合子 「その柵は必要か」
・・・最初討手を仰せつけられたときに、お次へ出るところを劍術者新免武蔵が見て、「冥加至極のことじゃ、ずいぶんお手柄をなされい」と言って背中をぽんと打った。十太夫は色を失って、ゆるんでいた袴の紐を締め直そうとしたが、手がふるえて締まらなかったそうで・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫