・・・――賑かな、しかし寂しい一行は歩み出した。その時から十余年経った。 その五人の兄弟のなかの一人であった彼は再びその大都会へ出て来た。そこで彼は学狡へ通った。知らない町ばかりであった。碁会所。玉突屋。大弓所。珈琲店。下宿。彼はそのせせ・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・二人は黙して歩みぬ。 おや。という光代の声に辰弥は俯向きたる顔を上ぐれば、向うよりして善平とともに、見知らぬ男のこなたを指して来たりぬ。綱雄様と呼びかけたる光代の顔は見るから活き活きとして、直ちにそなたへと走り行きつつ、まあいついらっし・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・おりおり立ち止まっては毛布から雪を払いながら歩みます、私はその以前にもキリスト教の会堂に入ったことがあるかも知れませんが、この夜の事ほどよく心に残っていることはなく、したがってかの晩初めて会堂に行った気が今でもするのであります。 道々二・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・それにはいろいろな人生の歩みと、心境の遍歴とを経ねばならぬ。信仰を求めつつ、現在の生活に真面目で、熱心で、正直であれば、次第にそのさとりの境地に近づいて行くのである。それ故信仰の女性というのは、普通の場合、信仰の求道者の女性という意味であっ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 老人は、脚が、かなわなくなったものゝのように歩みが遅かった。左右から憲兵が腕をとって引きたてゝていた。老人の表情は、次第に黒くなった。眼尻の下った、平ぺったい顔、陋屋と阿片の臭い。彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ これを聞くとかの急ぎ歩で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興じて笑い声を洩らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉越に紅いや青い色をちらつかせ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・最後からでも歩いて行こうとしているような、ゆっくりとおそい次郎の歩みは、私自身の踏もうとしている道でもある。三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行っているほうで、きのう自分の描いたものをきょうは旧いとする・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・おかあさんは歩みも軽く海岸の方に進んで行きました。 川の中には白い帆艇が帆をいっぱいに張って、埠頭を目がけて走って来ましたが、舵の座にはだれもおりませんでした。おかあさんは花と花のにおいにひたりながら進みますから、その裳は花床よりもなお・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・僕たちは、杉林のほうへゆっくり歩みをすすめていたのである。「木下さんはどうしています。」「相変らずでございます。ほんとうに相すみません。」青い毛糸の手袋をはめた両手を膝頭のあたりにまでさげた。「困るですね。僕はこのあいだ喧嘩をし・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・と言っている、その力学的な「歩み」は一句から次の句への移動の過程にのみ存する。 その移動のモンタージュ的手法はすなわち付け句の付け方であっていわゆる、においとか響きとか位とかおもかげとかいう東洋的な暗示的な言葉で現わされているのであるが・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫