・・・ 雌蜘蛛はいつか音もなく、薔薇の花の底から動き出した。蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊の下にひそんでいる蜜へ嘴を落していた。 残酷な沈黙の数秒が過ぎた。 紅い庚申薔薇の花びらは、やがて蜜に酔った蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・ 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」一 三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろう・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前た・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・戸部 花田、貴様は残酷な奴だ。……ともちゃんをすぐ寡婦にする……そんな……貴様。花田 なんだ貴様たちはともちゃんのハズがほんとうに……瀬古 死ななけりゃならないんだろう。花田 死ぬことになるんださ。瀬古 同じじ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊とがある。 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒れていて、色が蒼い。 貴夫人はもう誰にも光と温とを授けることは出来ないだろう。・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾も了簡のしようがあるが、は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規があるから、我身を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人生命を・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 眼にいっぱいの涙を湛えて、お香はわなわなふるえながら、両袖を耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまじと勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、「あれ!」と背くる耳に口、「どうだ、解ったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛をよけ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・むしろ自然の暴力が、いかにもきびきびと残酷に、物を破り人を苦しめた事を痛快に感じた。やがて自分は路傍の人と別れるように、その荒廃の跡を見捨てて去った。水を恐れて連夜眠れなかった自分と、今の平気な自分と、何の為にしかるかを考えもしなかった。・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 永久なる眠りも冷酷なる静かさも、なおこのままわが目にとどめ置くことができるならば、千重の嘆きに幾分の慰藉はあるわけなれど、残酷にして浅薄な人間は、それらの希望に何の工夫を費さない。 どんなに深く愛する人でも、どんなに重く敬する人で・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・僕はいよいよ残酷な決心の実行に取りかかった。「知りませんよ」と、母は曖昧な返事をした。「知らないはずはない。おれの家をあずかっていながらどんな鍵でもぞんざいにしておくはずはない」「実は大事にしまってあることはしまってありますが、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫